新庄中学の東、平地の神社。 旧桑海村の鎮守として現地より東100mにあった。延宝8年(1680)領主が三才山に諸鍬神社を移した祭当社も同所へ合祀される。元治元年(1864)三才山を飯豊青皇女の墓として修理することとなり、明治2年(1869)当社も式内社として復祀され、旧地に遷すことになったが、旧社地は西光寺地蔵堂の一画(位置不明)を残して人家が密集していたため、旧社地の西100mの現在地に遷座した。 この地は大和国に六ヵ所(高市、葛木、十市、志貴、山辺、曾布)ある御県の一つである。 何時頃からか、境内に八王山西光寺が立てられ、神社は衰微し、一小社を留めるのみの有様になつた。 明治5年までは、天津日高日子番能瓊々杵命一座であつた。 劔根命は葛木氏の祖として祀つたものであろうか |
葛城御県神社 大字新庄と葛木との境界に鎮座する。天津日高日子番能瓊々杵命を祀っていたが、明治年間天剣根命を追祀した。『姓氏録』神別の条に、葛木忌寸は高御魂命五世の孫、剣根命の後とあり、高木氏の租紳と見られる。『三代実録』貞観元年(859)従五位上に昇叙され、大和の六県社の一つで、すでに大同元年(806)の『新抄格勅符抄』に備前国に封戸ニ戸をあてられ、延喜の制で大社に列して案上官幣に預かっている。当社は古来桑海村(大字葛木の旧名)にあったが、延宝8年(1680)領主桑山氏の信仰した諸鍬・八幡の二社を、北花内の埴口陵に遷座、近村の神社も集めてすべてその末社としたが後、元治元年(1864)山陵修理に当って当社が式内大社の故を以って元の社地に遷座、今日に及んだ。 奈良県史 |
葛木御縣神社 大月次新嘗 葛木は前に同じ、御縣は美阿加多ど訓べし、○祭神在所等詳ならず○営國六御縣の一座也、 事は高市御縣社の下見合すべし、 類社 当国高市郡高市御縣神社の下見合すべし、当国六箇処あり、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和邦從五位下葛木御縣神從五位上、 神社覈録 |
御県(坐)神社 みあがた(にます)じんじや 『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出つる甘菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の、長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうつの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社は大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる、これは後に追加されたもので、金剛寺本延喜式の頭注に「貞」とあるので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。 ▼葛木御県神社 奈良県北葛城郡新庄町大字葛木字西口。旧村社。剣根命・天津日高日子番能瓊瓊杵尊を祀る。『新抄格勅符抄』に「葛城御県神二戸」とある。例祭10月12日。 神社辞典 |