石園座多久虫玉神社
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   【延喜式神名帳】石園坐多久虫玉神社 二座(上並大 月次/新嘗)大和国 葛下郡鎮座

   【現社名】石園座多久虫玉神社
   【住所】奈良県大和高田市片塩町15-33
北緯34度30分27秒,東経135度44分32秒
   【祭神】建玉依比古命 建玉依比売命 (配祀)豊玉比古命 豊玉比売命
当社本来の祭神は、多久豆玉比古命・多久須玉依比売命の二座であろう

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年代不詳であり
貞観元年(859)正月27日從五位上『三代実録』
大同元年(806)神封部に「射園神一戸美乃」『新抄格勅符抄』
享保2年(1742)神階正一位
明治6年(1873)村社
昭和6年(1931)県社に昇格
昭和41年(1966)神社本庁別表に掲げる神社に指定

   【関係氏族】賀茂氏秦氏 爪工連
   【鎮座地】安寧天皇片塩浮穴宮跡と伝える
 移転の記録はない

   【祭祀対象】宮跡、当初は氏祖か
   【祭祀】
   【公式HP】 石園座多久虫玉神社
   【社殿】本殿は二棟で、西向、それぞれ春日造屋根鋼板葺(以前は檜皮葺)丹塗
拝殿・儀式殿

   【境内社】

通称龍王宮(りゅうおうぐう)
安寧天皇片塩浮穴宮跡と伝える。北殿に建玉依比古命(相)として豊玉比古命、南殿に建玉比古命(相)として豊玉比売命を祀る。いずれも海神に関する神。二上山が近くに見える。生駒山にもほど近い。
以前は、社頭の前(西)に砂子川(高田川)が流れ、堤防の北端より南は磯野東、三倉堂の西北端に至る下街道があつて、当神社の馬場先となつていた。馬場先は、およそ200間(約400m)以上もあつて、松、楓、桜が両岸に植えられていた。
社頭の砂子川には石橋があつて、巾二間、渡り五間五尺、両端に高さ四尺の二重欄干がついていた。川の氾濫の度に架け替えられていた木橋であつたが、明治36年に石橋となり、祓戸橋と称していた。
戦後、昭和26年に、高田川を西方に移転するとともに、廃川敷を大和高田市の中央道路に改修された。祓戸橋は姿を消し、かつての面影は一新され、繁華街の真只中の神社となつた。
古くは「射園神:いそのかみ」と呼ばれたという。石上神宮がある石上(いそのかみ)と何らかの関係があるのか興味深い。また、宮中に祀られていた園神神社と関係があるとの説もある。


由緒

当神社は、第三代安寧天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄池に祭祀され、第十代崇神天皇の御勅祭に預り給い、延喜の制には大社に列し、並大・月次・新嘗案上の官幣に預り、神護元年神戸を領し、貞観元年神階従五位上に叙せられ従一位は園の大暦にみえ、享保2年正一位に進み給ふ。元和2年迄は、葛下郡八十六ヶ村総社(郷宮)でありました。
明治24年内務省より古社保存資金下賜、昭和4年には宮内省より大礼建造物の一部下賜、次いで昭和5年の営繕に際し、同年8月伊勢内宮御正殿の御梁・御桁、其の他古殿舎材の御下賜があり、昭和7年天皇陛下より幣帛料の御奉納あり、往昔より皇室の御崇敬、国家の待遇厚く、地方の霊社として氏子崇敬者の尊信浅からず、昭和6年県社に列せられ、昭和41年には、神社本庁の別表に掲げる神社に加列されました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石園座多久虫玉神社

当神社の由緒は久遠にして、創立は神代と云ひ、安寧天皇浮穴(孔)宮跡の浄地に祭祀せられ給ふ。
第十代崇神天皇の御勅祭に預り給ひしは国史に明らかなり。延喜の制には大社に列し、並大・月次新嘗案上の官弊に預り給ふ。神護元年には神戸を領し、貞観元年正月神階従五位に叙せられ、従一位は園の大暦に見へ、享保年間正一位に達し給ふ
元和2年迄は当葛下郡八十六箇村の郷宮にして其の規模の廣大祭祀の盛麗厳粛なりしは梁札及び古文書に明らかにして霊威赫々神跡照なりしは衆知の處也亦の名を龍王宮と稱える。

社頭掲示板



当社の祭神についての考察

 田中氏は石園座多久虫玉神社の祭神の推移を、当麻葛城の繊維技術氏族に関わるもの、また祭祀氏族に賀茂氏秦氏の関わりを指摘され、以下のように推理される。
当初 多久都玉命、下照姫命
「記紀」神話以後 味鋤高彦根命=賀茂建角身命、下照姫命
安寧天皇片塩、浮孔宮跡に比定された後 園神、韓神
古学神道以後 建玉依比古命、建玉依比賣命

田中昭三編著『大和の神祭祀』



石園座多久虫玉神社

大和高田市形塩鎮座の社を、式内大社にあてている。『三代実録』の貞観元年(859)正月27日近畿七道諸紳進階の中に石園坐多久豆玉神を従五位上に昇叙とあるが、その注記に、「豆、原作虫 按姓氏録左京紳別有 多久都玉命、今推改」とあって、その後の諸書に豆あるいは虫とある。『大和志』では、虫でなく豆だとし、さらに『新抄格勅符抄』の紳封の部に、「射園神一戸美濃」とある。葛下郡十八座の式内社中、当社は二度とも式内大社に列し、月次・新嘗の二度案上官幣に預った神社である。俗に竜王宮とも称する。創祀年代は、明らかでないが、「社記」では貞観元年の神階昇叙後も度々進階して、享保3年(1718)10月、正一位に進んだとある。 今、主神に建玉依彦命・建玉依比売命、配紳に豊玉彦命・豊玉比売命を、相殿紳として、天児屋根命・国狭立命を祀る。
 前記『姓氏禄』巻第十一「爪工連」の条に、「神魂命ノ子多久都玉命三世天仁木命之後也」とあり、同巻第十九の爪工連に「雄略天皇御宇。紫蓋爪を御座にかざり奉る。仍って爪工連姓を賜う」とある。玉体をおおう御笠や頭髪や冠への挿頭の制作を業としたこの地方の爪工氏の租紳であったとみられる。
 古来竜王宮と呼び、祈雨紳、農耕紳としても崇敬されたが、今も御田植祭が盛大に行われる。社宝の、文政13庚寅(1829)9月吉辰等墨書のある『おかげ参り』の絵馬が珍しく、県指定重文。今のニチイ付近に、かって当社神宮寺の伝福寺があった。寺内諸坊に社僧がいたことは、天和2年(1682)7月の「竜王縁起」に「大阿闍梨 伝福寺安阿弥 海呑(号徳) 奥防良祐、 舜教、尊海、崇善、祐雅、西防順尊 善海 地蔵院別当社僧並施主等ト棟札認メ有」と記されていることでもわかる。
 『大和志』に当社について「上梁文 曰承久元年(1219)7月重修 又云応永12年(1405)磯野中村横大路今里氏人等再造 今与本村共預 祭祀」とあるが、社記には明治維新まで保管されていたが今亡失の梁札(木鏡で円形口径凡一尺)に「承久元年奉重修御本殿 別当□□函吉村」の外、脇に領土内稲米の美地太田荘から紳供米奉納などとある、応永の棟札(凡九寸)には「応永12酉7月奉再建御宝殿(別当)吉村源兵衛」とあり、脇書に「今年太田荘爾隠住竜王社別祭太田荘云布施」とある。

奈良県史



石園座多久虫玉神社

由緒・沿革:
当神社は、第三代安寧天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄地に祭祀され、第十代崇神天皇の御勅祭に預かり給い、延喜に制には大社に列し、並大・月次・新嘗案上の官幣に預かり、神護元年神戸を領し、貞観元年神階従五位上に叙せられ従一位は園の大暦にみえ、享保2年正一位に進み給ふ。元和2年迄は、葛下郡八十六ケ村の総社(郷宮)でありました。
明治24年内務省より古社保存資金下賜、昭和4年には宮内省より大礼建造物の一部下賜、次いで昭和5年の営繕に際し、同年8月伊勢ない宮正殿の御梁・御桁、其の他古殿舎材の御下賜があり、昭和7年天皇陛下より幣帛料の御奉納あり、往昔より皇室の御崇敬、国家の待遇厚く、地方の霊社として氏子崇敬者の尊信浅からず、昭和6年県社に列せられ、昭和41年には、神社本庁の別表に掲げる神社に加列されました。
御神徳:
当社の御祭神は、神魂神の御子にして亦の名を多久虫玉命(新撰姓氏録・神祇志料)・天御食持神・手置帆負命(古史傳)とも申し、この三つの御名によって御神徳を拝し奉ることが出来ます。
天の御食持の大神は、五穀及び種々の野山の幸、又は衣食の事を司り給い、人の長寿を守り給ふ。手置帆負命は、宮殿を初め家造りや、諸種の器具を作り給いて、住居のことを守り給い、多久虫玉の大神はタクミの御魂、所謂心魂の活動と知識の事を守り給い、更に建玉依比売は和合・家業反映を守り給ふ神で、御高風優れ、人類総ては此の神の恩恵に洩れる者はありません。御夫婦の神が同じ処に鎮まり給い、延喜の制には二座とも大社に列し、官幣に預かり給いし目出たきお社は世上稀であります。
旱魃の年には雨乞い祈願(一社相伝)が行われ、その霊験あらたかなる事は世人のよく知るところであり、夏祭は7月8日の梅雨のさなかに斎行されています。
又、土木建築業者の崇敬は他社を超越したものがあり、最近は御夫婦の神の御加護を願う神前結婚式が数多く挙式されるようになりました。当神社の亦の名を、『石園座大社竜王宮』とも、『竜王さん』とも『ジョウサン』とも呼ばれ、氏子や崇敬者から親しまれ、その信仰は昔日と異なるところがありません。

由緒書



石園座多久虫玉神社

静御前ゆかりの地
石園座多久虫玉神社
(龍王宮)
石園座多久虫玉神社(籠王宮)は、延喜式神名帳に式内社「石園坐多久豆玉神社」と記されています。かつてこのあたり一帯が磯野領でした。これより600mほど西に行くと、静御前の母礒野禅尼の故郷てある礒野村(現在大和高田市磯野町)です。
白拍子となった静御前は、源義経に見初められ、やかて源頼朝に追われる身となります。捕らわれ鎌倉に送られた静御前は、頼朝の妻政子の情けにより京に帰ることができますが、心疲れて病気になり、母の故郷である大和高田市礒野に帰ってきます。静御前自ら病気平癒を祈った「笠神の杜」の明神さんは、現在この境内に移され祀られています。短い生涯を終えた静御前の墓は、塚跡として礒野に残っています。

社頭掲示板



石園坐多久豆玉神社二座 並大月次新嘗

石園は伊波曽能と訓べし、多久豆は假宇也、玉は多麻と訓べし、○祭神明か也〇三倉堂村に在す、今龍王と称す、(大和志、同名所図会)○姓氏録、(左京神別中)爪工連、神魂命子多久都玉命三世孫天仁木命之後也、」同、(和泉國神別)爪工連、神魂命男多久豆玉命之後也、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下石園多久豆玉神(印本豆を虫に作る)從五位上、

神社覈録



石園坐多久虫玉神社

いわそのにますたくむしたまじんじや
奈良県大和高田市西片塩町。旧県社。竜王宮ともいわれた。祭神に建玉依比古命・豊玉比古命・建玉比売命・豊玉比売命を祀る。
『延喜式神名帳』に、「石園坐多久虫玉神社二座(並大。月次新嘗)」とある。また、貞観元年(976)正月には従五位下から従五位上に神階昇叙のことがみえる。『新撰姓氏録』(「左京神別」)に「爪工連神魂命子多久都玉命三世孫天仁木命之後世」、また同書(「和泉国神別」)に「爪工連神魂命男多久豆玉命之後也」と記している。年中行事秘抄に「多久須玉依媛命・三倉堂村今称竜王上梁文曰承久元年(1219)7月重修 応永12年(1395)再造」と記している。元和2年(1616)まで葛城郡八六力村の郷宮であった。例祭7月8日、10月9日。4月8日、牛面を冠り、草刈・田鋤・代かき・田植の所作による神事あり、豊業豊作を予祝するものである。なお、境内に「安寧天皇浮孔宮伝説地」とした石社が建っている。

神社辞典



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