長尾神社
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   【延喜式神名帳】長尾神社 (大 月次/新嘗)大和国 葛下郡鎮座

   【現社名】長尾神社
   【住所】奈良県葛城市長尾471
       北緯34度30分32秒,東経135度42分37秒
   【祭神】水光姫命 白雲別命
       延喜式に祭神一座とあり、長尾首一族の祖神を祀ったのではないか

   【例祭】10月4日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観元年(859)正月27日甲申 従五位上『日本三代実録』
       久安年間(1145〜50)の検注帳には「平田庄内、長尾宮」
       弘安4年(1281)には正二位
       享保9甲辰年(1724)の長尾大明神明細帳に「正一位長尾大明神」
       明治40年神饌幣帛料供進の指定村社
       昭和18年より県社昇格申請中、敗戦のため実現しなかつた

   【関係氏族】長尾氏・吉野連
   【鎮座地】この地に早くから祀られていた

   【祭祀対象】長尾氏
   【祭祀】江戸時代は「長尾大明神」と称す
   【社殿】本殿 二棟で、東向、一間社春日造、銅板葺
       拝殿・絵馬殿・社務所

   【境内社】嚴嶋神社

この地は竹内街道と長尾街道が交差する古代からの交通の要衝。
交通神として、また竹之内峠の守護神として、早くから祀られていたと思われる。
御祭神は神武天皇東征に際し、吉野川上にご巡幸の時、井戸の中から 現れたとされている水光姫命であり、古事記や日本書紀では、光って尾が生じていた と記されている。
この水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつて覆われている御陰井がある。
当麻路一帯を代表する地名が長尾で、その長尾氏の氏神であったとされる


由緒

延喜式神名帳(平安時代)に「葛下郡長尾神社、大、月次、新嘗」とでている式内の旧社です。尚六国史の一である三代実録に、「貞観元年己卯(875)正月27日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、今から1100年前には、この地に鎮座されたことが明らかで神階はその後寛平9年(897)より弘安4年(1281)までの間に九階進昇のことがあり、弘安4年には正二位に江戸時代には正一位にまで進まれたと社傳に伝えている。
御祭神は神武天皇ご東征に際し、吉野川上村井光方面にご巡幸の時、井戸の中から現れたとされている水光姫命であり、古事記や日本書紀では、光って尾が生じていたと記されている。新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘、豊御富登であり、水光姫の名は神武天皇が授づけられたもの」としている。長尾神社の社傳では「この水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつて覆われている御陰井の藤の花はそれである。
 嘉吉三年(1443)王寺町放光寺縁起によれば「長尾神社は放光寺の鎮守神で、葛下郡全体を当社に献じられた。」としていますが、長尾神社の名称の由来を説明して、即ち「城上郡(今の桜井市のあたり)の美女を嫁にされた神様があったが、一向に姿を現されないので、嫁の父が、神様の着物のすそに、長い赤糸を取り付けて、その後をつけていった所、長尾宮には入った」といふ話であります。水光姫命は豊御富とも申され、豊かな吉野川の水を守られる水神であり、また井戸の神様でもあります。父神が天より降臨された天白雲別命であるというのは、白雲が雨をもたらし、雷にもなるところから、水の根源を現したものであります。この点で、農耕を始め、種々の産業を守る御神徳をおもちであります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




長尾神社

右側の長尾神社は、飛鳥京と難波を結ぶ日本最古の官道であった竹内街道と、伊勢・長谷街道が吉野・壼坂から下田・王寺を経て堺に至る長尾街道とが交差する交通の要衝をふまえた長尾の森の広大な神域に鎮座しております。正面の拝殿は、昭和11年の新築で瓦葺、単層入母屋破風掛造、拝殿の正面に入母屋造の祝詞屋があり渡廊下で拝殿とつながれており、明治17年の再建です。本殿は二社並立しており向拝が付された素木の春日造を基本にした紫宸殿造で、軒は二重繁垂木、桧皮葺の屋根には干木堅魚木が配されています。
伝説では、長尾神社は東面し、大和高田市の竜王社は西面しており・両社は相対しています。竜王社は竜の頭であり、長尾神社は竜の尾をあらわしていると伝えられています。また・長尾神社は大蛇、つまり巳さんの尾で、三輪明神さんは、巳さんの頭であるとも伝えられています。

社頭掲示板



長尾神社

竹内・長尾街道の要衝で、古代の難波・飛鳥・吉野への街道筋にある交通紳として、早くから祀られていた当社は、「三代実録」の貞観元年(859)正月27日に従五位下長尾神従五位上に昇叙と有り、延喜の制では、式内大社に列している。社伝によると、その後度々神階が進み、弘安4年(1281)には正二位となり、江戸時代には正一位に進んだという。 享保9年(1724)の「長尾大明神明細帳」に正一位長尾大明神と記している。
吉田東吾の「大日本地名辞書」には、長尾直の租紳を祀るとあるが、長尾氏はこの地方の豪族で、「日本書紀」天武天皇の壬申(672)の条には、長尾真墨が大海人皇子方として、近江方の軍と竜田で戦ったとある。「久安年間の検注帳」(大乗院寺社雑事記所収)に、「平田庄内長尾宮三丁三反」とあり、平安末までに当社荘園が飛鳥地方に有ったことを示すが、近年この近隣の佐田小谷遺跡で、「長尾」の墨書銘ある土器が出土している。(橿原考古学研究所発表)
ところで、正徳3年(1713)の「長尾神社略記」には祭神を、「記」「紀」「新撰姓氏録」にでる吉野首(連)の租紳 水光姫命・白雲 根命とし、大字竹内の三石の三角石は降臨石というが、水光姫命 が白蛇の姿で降臨されたという。白雲根命は水光姫命の父神で、雨・雷の神として崇敬されている。正安4年(1302)僧審盛の著「放光寺古今縁起」(王寺放光寺蔵)には、長尾の神を勧請して、南御堂に祀ったが、この神は伊勢の内宮と外宮の垂迹で、当社は葛下郡の惣社であると記している。。

奈良県史

御陰井跡

当社社伝に「水光姫命が応神天皇の御代に竹内村の三角磐に降臨され、子孫の加弥比加尼(かみひかね)に命じて当地に祀られたもので、その姿は白蛇であって、神社の北東の御陰井に封じた」と記された井戸跡です。

社頭掲示板



式内大社 長尾神社

一.御祭神  天照大御神 豊受大神
 水光姫命 (豊御富) 白雲別命
 住吉大神 熱田大神 諏訪大神
一.由緒
延喜式神名帳に「葛下郡長尾神社 大月次 新嘗」とある式内の古社です。
「教光寺古今縁起」(1302)や「大和志」(1736)によると、ご祭神は伊勢神宮の内宮外宮野大神で住吉・熱田・諏訪の神々も祀られて、江戸期の文献では水光姫命・白雲別命も祀られたとあります。
また「同縁起」には「長尾神社は葛下郡全体の総社である。天武天皇が壬申の乱(672)で勝利した後に感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた」と記され、江戸時代には正一位の神階を授けられました。
日本最古の官道である竹ノ内街道及び初瀬街道(横大路)や長尾街道など古代主要街道の各起点地に鎮座するため古来より交通安全・旅行安全の神様としても厚く信仰されています。
また水光姫命は古事記や日本書紀には体が光って尾が生じていたと記されて、神様のお姿が白蛇であるといわれるところから蛇の頭が三輪神社で尾っぽが当社という伝承もあります。さらに当社は西日本の長尾姓の発祥地ともいわれています。

社頭掲示板



長尾神社 大月次新嘗

長尾は奈賀哀と訓べし○祭神詳ならず○長尾村に在す、(大和志、同名所図会)
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下長尾神從五位上、

神社覈録






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