片岡神社
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   【延喜式神名帳】片岡坐神社(名神大 月次/新嘗)大和国 葛下郡鎮座
          (旧地)片岡神社【旧地】

   【現社名】片岡神社
   【住所】奈良県北葛城郡王寺町王寺1827
       北緯34度35分22秒,東経135度42分17秒
   【祭神】天照皇太神 表筒男命 中筒男命 底筒男命 品陀別命 清瀧命
       清瀧大神、八幡大神、豊受大神、天照大神、住吉四柱大神 「式内郷社、片岡神社明細帳」(明治25)

       当初の祭神不詳

   【例祭】7月31日 夏祭 10月25日 秋祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】推古天皇21年(613)12月庚午朔「皇太子遊行於片岡」『日本書紀』
       大同元年(806)「片岡神三十戸」『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日甲申 正五位下『三代実録』
       貞観元年(859)9月8日庚申、「大和國片岡神、遣使奉幣、爲風雨祈焉」
       正暦5年(994)4月27日 疫癘、天変災異が多く中臣氏人奉幣『本朝世紀』
       明治6年(1873)4月、郷社に列せられた
       明治39年(1906)12月神饌幣帛料供進の指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】伝承では大峯→張井→門前と三回遷した
        保延5年(1139)8月に放光寺講堂の西裏に社殿を建てて勧請(大峯にある旧社地であろう)
        仁平元年(1151)3月に食堂の北浦の邊に遷し奉つた(現在の社地)
        社殿敷地は現在地から約二○間後方の林中であつたものを天保14年(1843)12月に現在地に奉遷したという

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大宮」「五社明神」と称す
   【社殿】本殿木造銅板葺五間社神明造
       

   【境内社】大原神社・金計神社・住吉神社・弁天神社

往古は、葛下郡または傍丘の郷の総社と言われ、郷民は大宮とも称したが、元來は、小字大峯にあつたとする伝承があり、現在小祠があり、榊の巨木がある。
伝承では大峯→張井→門前と三回遷した。
社殿敷地は現在地から約二○間後方の林中であつたものを天保14年(1843)12月に現在地に奉遷。
この社は。放光寺の鎮守社ともいわれ、本殿向かって左方には大原神社、金計神社ほか計四社がまつられている。
片岡神社はあまごいの神様で、墓の土で泥饅頭を作り神社にそなえると神社は、死を嫌うのでそれに怒って雨を降らせるのだそうである。
神様を怒らせて、雨を降らせてもらう。
この地区の神社は出生絵馬の奉納が多い


片岡神社

古くは元町大峰の東北端に鎮座していたそうです。「新抄格勅附抄」に大同元年(西暦806年)のこととして片岡神神戸(封戸、昔神領に付属しての租、庸、調を神社に納めていた農民)のことが出ているそうで、その頃概にこの神社が成立していたことを示している。また、「三代実録」には、貞観元年(西暦859年)正月、正五位下に昇叙されたことが出ています。この社は、法光寺の鎮守社ともいわれ、本殿向かって左方には大原神社、金計神社ほか計四社が祀られています。社伝によると風雨の神として尊信せられ正暦5年(西暦994年)には、疫病や天変地異が続いたため、中臣氏人が宣命使となって救済を祈願して奉幣したといわれています。

社頭掲示板



片岡神社

旧郷社。天照大神・表筒男命・中筒男命・底筒男命・品陀別命・清流大神を祀る。「延喜式」神名帳葛下郡「片岡坐神社(名神大、月次新嘗)」にあてられ、以前は王寺町本町の小字大峯に鎮座したと伝える。式内片岡坐神社は大同元年(806)大和に七戸、遠江に八戸、近江二十五戸の紳封を当てられ(新抄格勅符抄)、天安3年(859)1月27日に正五位下に昇叙、同年(貞観元年)9月8日風雨祈願のための奉幣を受け(三代実録)、祈雨紳祭にもあずかった(延喜式)。「本朝世紀」によると正暦5年(994)4月27日に疫病・天変災異多発のため、中臣氏人が宣命使となって救済を祈願し奉幣されている。新羅の使節入朝の際には酒稲料五〇束があてっられた(延喜式)。
 当社は俗に大宮と称し、応仁2年(1468)の棟札には「片岡坐五社大明神」とみえる。西方の放光寺(片岡王寺、現王寺町)の鎮守とする説もあり、放光寺古今縁起(王寺町有文書)に鎮守三所として「南御殿長尾五所(葛下郡惣社振別ナリ) 中御殿八幡三所(源氏宗廟大菩薩) 北御殿地主御霊(大原氏神ナリ北社)」とみえる。この三所は葛下郡惣社長尾社(現奈良県當麻町)の流鏑馬をめぐって争論があった時、諸郷が長尾社から離れ、天仁元年(1108)放光寺・当麻氏などにより清水寺(不詳)に長尾社を分社勧請、八幡神・大原神を合祀、畠田村(現王寺町)、放光寺講堂裏と移って、仁平元年(1151)同寺食堂北裏に移したという。この鎮守三所が当社の事と考えられている。大原氏神は現在当社境内摂社の大原神社である。旧社地と伝える大峯の北東端、通称トミヤには榊の巨木が立つ神域があり、当社宮座も大峯にのみ残る。神社北東の融通念仏宗岩松寺に当社に奉納された徳川期の大般若経を収蔵し、品善寺に旧本地仏の十一面観音菩薩立像を安置。

寺院神社大辞典



宮跡祭

昔は大峯に鎮座しており、旧社を「モトミヤ」と呼び、また住居表示の際には「元町」としました。それに対し、現在の宮周辺は「本町」とされています。ちなみに旧社地には小さな祠があり、鳥居の奥に碑が建てられてあります。2月11日には宮跡祭があり、旧鎮座地に人が集まります。またその近くに昔焼失した「三松寺」跡があります。

http://uryuuhazime.seesaa.net/article/309198935.html



郷社 片岡神社

祭神 豊受姫命 表筒男命 底筒男命 息長足姫命 清瀧大神 天照皇大神 中筒男命 品陀別命
本社創立年代詳かならず、五社明神と称す(大和志)、平城天皇大同元年大和遠江近江地三十戸を神封に充て奉り(新抄格勅符)、清和天皇貞観元年正月甲申從五位下動八等より正五位上を授け、同年9月庚申幣使を差して雨風を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)一條天皇正暦5年4月戊申、疫疾放火の変を祈る為に中臣氏人を宜命使として幣帛を奉りき(本朝世紀日本記略)神紙志料によれば載神は賀茂建角身命の子鴨建玉依日子命となす、式廿一(玄蕃)に、凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稲、大和国片岡一社五十束、云々とあるは蓋し当社なるべし、明治6年郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、社務所、廊下等の建物あり、境内587坪(官有地第一種)にして片岡山にあり葛城山嶺の麓に位し、緑樹鬱蒼として幽静閑雅の地たり、古歌に「片岡の小松の杜のほとゝぎすほのかにも啼恋しかるべし」とある小松杜は即ち之ならむか。

明治神社誌料



片岡坐神社 名神大月次新嘗

片岡は加多乎加と訓べし○祭神詳ならず○王寺村に在す、今五社明神と称す、(大和志、同名所図会)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國片岡神社一座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、片岡社一座、○日本紀、推古天皇21年12月庚午朔、皇太子遊行於片岡、
日本紀、孝元天皇6年9月戊戌朔癸卯、葬大日本根子彦太瓊天皇子片丘馬坂陵、(古第記作馬叛上)
式廿一、(諸陵寮)片丘馬坂陵、在大和国葛下郡、(日本紀通証、前王廟陵記、大和志、古事記伝等皆此地也と云ヘり)
類社
遠江國秦原郡、片岡神社
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下勲八等片岡神正五位上、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国片岡神、遣使奉幣、為風雨祈焉、
雑事
式廿一(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稻、大和國片岡一社、五十束、送生田社、(全文当國葛上郡高鴨神社の條見合すべし

神社覈録



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