高天彦神社
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   【延喜式神名帳】高天彦神社(名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 葛上郡鎮座

   【現社名】高天彦神社
   【住所】奈良県御所市北窪158
       北緯34度25分4秒,東経135度41分45秒
   【祭神】高皇産霊神 市杵島姫命 菅原道真
       延喜式での祭神は一座であり、市杵島姫命・菅原道真は後世の加上であろう

   【例祭】4月29日 春季例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】宝亀10年(779)奉幣『新抄格勅符抄』
       大同元年(806)四月己未 預四時幣帛『日本後紀』
       承和6年(839)5月丙午、從三位『続日本後紀』
       貞観元年(859)正月27日甲申 從二位『三代実録』

   【関係氏族】葛城氏
   【鎮座地】創建当時よりこの地にあり

   【祭祀対象】白雲峯(神体山)694m
   【祭祀】江戸時代は「彦沢権現」と称す
   【社殿】本殿一間社流造。瓦葺
       拝殿・拝所

   【境内社】八幡神社・春日神社・菅原神社・三十八社・祖霊社御霊神社・稻荷神社

本殿の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえているが、社殿ができる以前は 、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていた。古杉のそびえる参道は北窪・ 西窪の集落に通じているが、そこがかつての葛城族の住地である。彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称 が神話として伝えられてきた。
地名「高天」は「高間」の義か、葛城山(現金剛山)中腹の平地を意味する形状地名である。
創立不詳であるが、葛城族の中心の神社であり、葛城王朝の発生地とする。
境内末社に「三十八社」があり、祭神は「葛城三十八皇神」となっている。葛城王朝の歴代の王と云う。


由緒

本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生まれになったニニギノミコトが高天原からこの国土に降臨されます。その天孫降臨にあたって、国つ神の征伐に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた「高天原」も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山がそびえていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。古杉のそびえる参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかつての葛城族の住地であります。彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて「高天原」と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。
日本書記に、腋上(わきがみ)のホホマの丘に登りまして、国のかたちをめぐらしおせりてのたまわく、あなにえや、くにみえつ。うちゆふのマサキクニといえども、なおアキツのとなめせる如くあるか。これによりて始めてアキツシマのナあり。とある腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ホホマ丘も丘裾に本馬(ほんま)の地名を残しています。国号のアキツシマもこの地に最初の王朝が築かれたことに由来します。
葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びますが、竹内宿祢によって復興し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。
これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元(八五九)年に神位従二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りには官幣にあずかってきた古社であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




高天彦神社

御祭神 高皇産霊尊
由緒
天照大神の子の天忍穂耳尊に本社の御祭神の娘、栲幡千々姫命が嫁ぎ御子の瓊々杵尊が高天原から降臨される。その神話にいう高天原がこの台地である。
御祭神を祖神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。
延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には官幣に預かってきた名社である。

社頭掲示板




高天彦神社

御祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(別名 高天彦神)
由 緒
 本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
 神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生れにになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。
その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。
古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。
彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて 「 高天原 」 と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。
そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。
神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。
 『日本書紀』 神武三十有一年の夏四月の条
「三十有一年の夏四月の乙酉(きのとのとり)の朔(ついたちのひ)に、皇(すめらみこと)輿巡(めぐ)り幸(いでま)す。
因りて腋上(わきがみ)のほほまの丘に登りまして、国の状(かたち)を廻(めぐ)らし望みて曰(のたま)はく、
「 研哉(あなにや)、国を獲(え)つること。内木綿(うつゆふ)のまさき国と雖(いへど)も、蜻蛉(あきづ)のとなめの如くにあるかな」
とのたまふ。
是に由りて、始めて秋津洲(あきづしま)の號(な)有り。 」
とある腋上は御所市の平野の古称で今でも伝わり、ほほまの丘も丘裾に本馬の地名を残しています。
国号の秋津洲もこの地に最初の王朝が築かれたことに由来します。
葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で亡びますが、武内宿称によって復興し大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました。
これら葛城一族の祖神を奉斎することから、清和天皇の貞観元年(859)に神位従二位に叙せられ、延喜の制では最高の名神大社となって、月次・相嘗・新嘗の祭りには官幣にあずかってきた古社であります。
金剛山は古く高天山と呼ばれましたが、中腹のこの広大な台地こそ日本人の心の故里 「 高天原 」 であり、神話も歴史もこの高天の台地を中心にして発展しました。
悠久の歴史に心を馳せて、御神徳をさずかるよう御祈念してください。
宮司謹白

由緒書



高天彦神社

御祭神 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
太古から神々の住み給うところと伝えられる「高天原」も、この高天の台地である。
本社の背後には美しい円錐状の御神体山(白雲峯)がそびえているが、社殿ができる以前は.この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていた。
御祭神高皇産霊神は造化三神の一神であり、最初に出現した神で万物の生成・育成の神とされる。神名の「ムス」は「苔が生す」などの「むす」で「生成する」の意である。 金剛山の東山麓に鎮座し、式内高天彦神社に比定されている。延喜の制では最高の名神大社に列せられ、月次・相嘗・新嘗の祭りには案上官幣に預かってきた古社である。
平成29年6月吉日
寄贈 御所ライオンズクラブ

社頭掲示板



高天彦神社 名神大月次相嘗新嘗

高天彦は多伽麻比古と訓べし○祭神明か也〇高天村に在す、今彦澤権現と称す、(大和志、同名所図会)〇式二、(四事祭上)相嘗祭神七十一座、神高天彦社一座、」同三(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和国高天彦神社一座、
神位 名神
続日本後紀、承和6年5月丙午、大和國葛上郡從三位高天彦神為名神、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國正三位勲二等高天彦神從二位、
官幣
類聚國史十、(祈年祭)延暦25年4月己未、大和國葛上郡正四位上高天彦神、預四時幣帛、縁吉野皇太后顧也、

神社覈録



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