集落奥の丘の上の社。見晴らしがよい。本殿裏は雑木林。 中古祭神の伝を失い、明治時代まではその鎮座地は明らかでなかつた。 広瀬神社相殿の穂雷神として祭られているとの説もある。 社伝によれば、当社は天文3年(1534)9月広瀬川合社から水穗雷神の分霊を遷して細井戸荘五ケ村(安部、大塚、平尾、疋相、大垣内)の氏神として奉齋されてきた。 穂雷命は元来火雷神であつたのではないか、広瀬社旧記には、俗に火大神と称したという。農耕社会が定着するに伴い、火が穂に変り農業神として祀られることになつたと思われる。その過渡的な状況を示したのが広瀬社の補佐神水穗雷命ではないか。即ち、広瀬社は水神として名高く、その補佐神として火雷神を祀るについて水に対し相反する属性の火雷命では都合が悪いので、火を穂に改め、水穂雷命と改名したのではないか。 |
穂雷神社社誌 初め火雷神を祭る。貞観7年(865)神階正六位を授け奉らる。中古祭神の伝を失う。 天照大神 (今は)天手力男命 栲幡千千姫命 を鎮祭し奉る。 伊勢の内宮に倣う。 明治6年(1873)村社に列し馬見一村の崇敬神社たり。阿部区が奉祭。 昭和20年(1945)阿部区民の氏神様として今日に至る。 平成2年7月 社頭掲示板 |
穗雷命神社 穂雷は保乃伊加都知と訓べし○祭神明か也○在所詳ならず 考証云、保田村乎、今属城下郡、 神位 三代實録、貞観7年10月9日丁巳、授大和国正六位上武雷神、保沼雷神、從五位下、同9年8月16日壬午、大和国從五位下武雷神、保沼雷神、從五位上、 連胤云、考証は軻遇突智命として、神位をぱ別社とす、祭事記、大和志等は、神位を当社に定め、比保古は火雷命(山城国乙訓坐)とす、未熟れか是なるを志らず、 神社覈録 |