讃岐神社
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   【延喜式神名帳】讃岐神社 大和国  広瀬郡鎮座

   【現社名】讃岐神社
   【住所】奈良県北葛城郡広陵町三吉328
       北緯34度33分16秒,東経135度44分21秒
   【祭神】大国魂命 若宇加能売命 大物主命
       御井命『大神分身類社抄』
       讃岐公の祖か『神社覈録』
       散吉大建命、散吉伊能城神の二神『特選神名牒』

   【例祭】10月15日 秋祭
   【社格】旧村社
   【由緒】元慶7年(883)12月2日甲午 従五位下
       寿永2年(1183)に荒張郷の藤原康高が再建
       後奈良天皇の御宇箸尾城の城主宮内少輔藤原爲春が再建
       広瀬川合の若宇加乃売命を勧請して、南川合明神と称するようになつた
       慶長19年(1611)正月火災

   【関係氏族】讃岐から移住の氏族
   【鎮座地】ほぼこの地が当初鎮座の地

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「南川合明神」と称した
   【社殿】本殿流造桧皮葺
       拝殿・門

   【境内社】三上神社、沼壱神社、曾根天神社

舒明天皇が高市皇子に詔して大国魂・倉稲魂・大物主の3神を祀ると伝う。讃岐より移住して来た人々がその祖神を祀ると伝う。集落の奥、平地の大社。拝殿・本殿のみが孤立している感がある。拝殿に「広瀬大明神」の額。かぐや姫の伝説地である。祭神の表示が本殿前と境内説明板で異なっている。
鎮座地名の「三吉」は「みつよし」と読むが、かつては「散吉」と書いて「さぬき」と読んでいた。一帯は讃岐国の斎部氏が移り住んだ地で、讃岐の故郷の神を勧請し創建したものとみられる。
式内社調査報告作成時に「かつて広瀬社より勧請したので、当社を「南川合明神」とも称している現地についてみるに、社号石も社号額もなく、たゞ玉垣内の石灯籠に「南川合明神」と彫られていることによつて、その所在を知るのみで、荒れ果てた姿で祀られている」とある。


由緒書

当社の祭神は(三代実録)元慶7年の条に正六位上散吉大建命、散吉伊能城神と見えるが当社伝では大国魂神と倉稲魂神、大物主神を奉祀するといふ。別に広瀬大明神と称するのは大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因る。
慶長19年(1611)正月火災後の現本殿は桧皮葺(現在鉄板葺)三間社でその前方の切妻造り本瓦葺の拝殿には掲額が多く中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元禄16年6月(1688)海北友賢筆の張り絵を付した貴重な歌仙絵である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




竹取物語

竹取物語の舞台となったのが讃岐神社の周辺であるとされています。  竹取物語の中でかぐや姫に求婚する五人の貴公子の名は、壬申の乱(672年)の功労者で実在した人物であることから、物語の時代は飛鳥から藤原京に都が築かれた頃であると推定されます。また、五人の貴公子は日夜、かぐや姫の館に求婚のため通った記事から、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現広陸町三吉)であるとされています。讃岐一族が大和朝廷に仕えるため、竹の豊富なこの地に移りすみ竹取物語が生まれたと考えられ、竹取翁の名が「讃岐造(みやこ)」であることとも符合します。

 



讃岐神社と竹取翁

かぐや姫 「今は昔 竹取の翁といふものありけり、・・・・」で始まる「竹取物語」(平安時代作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統〜文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国〔香川県〕の氏族斎都氏が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐姓は『和名抄』の大和国広瀬郡に散吉郷かあり『大和志』では、「散吉郷廃存済恩寺村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の斉音寺集落付近に比定している。又この付近に「藪/下」「藪口」「竹ヶ原」という地名があり真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。
三吉の北部には讃岐神社が鎮座し「延喜式」神名上、広瀬郡の讃岐神社がこれに当るとされる。
『竹取物語』の舞台が大和国てあったことはかぐや姫の求婚者であった五人の貴公子の名が、持統朝末期から文武朝初期にかけて朝廷の中心にいた五人の実在の人物に比定されることも符合する。
(資料〕奈良県史〔風土と文字〕
読売新聞 (昭和61年3月15日付夕刊)

社頭掲示板




讃岐神社

讃岐(さぬき)神社 竹取物語
延喜式神名帳に記された神社と考えられ、現在は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭るが、『日本三大実録』元慶七年(883)の散吉大建神・散吉伊能城神に従五位下を授ける記事は当社に関する可能性が大きい。『神名帳考証』には讃岐国と関係が深い祭神である景行天皇の皇子五十香足彦命を祭ると記される。
竹取物語の舞台が讃岐神社周辺であるとされている。かぐや姫に求婚する五人の貴公子の名は壬申の乱(672)で活躍した実在の人物であり、かぐや姫の館に求婚のために通った記事から、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉郷(現広陵町三吉)であるとされている。讃岐の一族が大和朝廷に仕えるため、竹の豊富なこの地に移りすみ、竹取物語が生まれたと考えられる

広陵町HP



讃岐神社

三吉の北の巣山古墳西南に鎮座する社を、式内讃岐神社にあてられている。三吉は和名抄での広瀬郡散吉郷に比定される。
祭神は、社伝によると元来大国魂命・大物主命・倉稲魂命であったが、後に広瀬神社の若宇加乃売命を勧請したので、当社を南川合明神と称するようになったという。
広瀬神社社記には、広瀬神社の旧摂社散吉社(今廃絶)は、散吉郷の南川合明神から勧請した御井神・井精神・大己貴神を祭神としているし、一説に讃岐国から御井神を勧請して、社名を讃岐神社として祀ったという。
大和志に三代実録元慶7年12月従五位下を授けられ、済恩寺・赤部二村界にあり、二村の笠村・古寺・寺戸・中村共に祭祀に預かるとある

奈良県史



讃岐神社

讃岐は佐奴岐と訓べし、和名鈔、(郷名部)散吉、○祭神讃岐公祖歟〇濟恩寺村赤部村の界に在す、(大和志)〇姓氏録、(右京皇別下)讃岐公、大足彦忍代別天皇子、五十香足彦命之後也、
連胤云、考証は讃岐公の氏社として、神位をば別社とす、祭事記、大和志等は、神位を当社に定め、比保古は飯依比古神(讃岐国亦名)とす、未熟れか是なるを志らず、
神位
三代実録、元慶7年12月2日甲午、授大和国正六位上散吉大建命神、散古伊能城神、從五位下、

神社覈録



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