雲甘寺坐楢本神社
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   【延喜式神名帳】雲甘寺坐楢本神社 大和国 平群郡鎮座

   【現社名】雲甘寺坐楢本神社
   【住所】奈良県生駒郡平群町梨本298
       北緯34度38分0秒,東経135度41分53秒
   【祭神】菊理姫命
       『神社明細帳』似外の諸書は、「祭神不詳」

   【例祭】10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立の年代及び経緯は不詳
       三代実録貞観3年(861)10月22日従五位下
       貞観8年(866)5月24日列官社
       宝永3年(1706)の『御改帳』に白山権現社
       明治6年(1873)村社
       明治24年頃に現在地に遷座
       明治40年(1907)神饌幣帛供進の神社に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地は宮脇(現在地)より東500mの己郡尾と称する所
        雲甘寺廃寺と共に現地に移る
        明治24年頃に現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「野間田明神または、白山権現」と称す
   【社殿】本殿春日造銅板葺
       割拝殿・神饌所・社務所

   【境内社】春日社、稻荷社

竜田川東岸、田地の中に叢林あり。
志賀剛氏は『式内社の研究』で、「(楢本神社の)神宮寺として出来た寺が雲甘寺である。雲甘はヲカ(岡)の訛つたウカで、元来は岡寺といつたのに雲甘寺の文字をあてたらしい。霊感寺の小字は後に作つたのであろう」と述ベている。
江戸期には白山権現社、明治には野間田明神とも呼ばれ、祭神は菊理姫命。水滴に宿る神で、産土神にあたる。元は東500m付近の丘の上にあった雲甘寺の鎮守社であったが、明治初年(1868)に寺が廃され、同24年頃に現在地に遷座されたという。
古来、雷難除去の神とされている。細かい砂の手入れの良い神社である。



雲甘寺坐楢本神社

延喜式の雲甘寺坐楢本神社が当社とされ、江戸期には白山権現社、明治には野間田明神とも呼ばれ、祭神は菊理姫命。水滴に宿る神で、産土神にあたる。元は東500m付近の丘の上にあった雲甘寺の鎮守社であったが、明治初年(1868)に寺が廃され、同24年頃に現在地に遷座されたという。拝殿の奥に立派な朱塗りの本殿があり、伝承では雷難除去に御利益があったという。摂社の春日社は吉田村の氏神を合祀した社殿という。
梨本村・西向村・吉新大字(吉田村・新家村)の4村の氏神で、宝永三年(1706)の改帳には、5×5尺の白山権現社を中心に252坪の広い境内地を有していたとある。
延宝六年(1678)の石灯籠や白山権現と彫られた元禄16年(1703)の手水石が境内にあり、文久2年(1862)の湯釜も伝わる。

社頭掲示板



楢本神社

式内小社に比定される当社は今、梨本と吉新の氏神で野間田明神または白山権現とも呼ばれた。『三代実録』の貞観3年(861)10月22日の条に雲感寺無位楢本神に従五位下を、同8年5月24日の条に大和国平群郡雲甘寺従五位下楢本神宮社に列するとある。
明治25年の『神社明細帳』に「旧村地ハ宮脇ヨリ東四町ノ字巳郡属ト称スル所ニアリシ雲甘寺ノ鎮守ナリキ。廃寺ト共ニ現地ニ移ル」と記されている。宝永3年(1606)の「寺社改帳」(千光寺蔵)には、「白山権現社(五尺・九尺)境内無年貢地東西拾四間 南北拾八間 梨本村西向村吉田村新家村四カ村之氏神ニ而御座候」とある。祭神は『神社明細帳』に菊理姫命とあり、大正4年の『神社調査書』には、古来雷難除去の神であったとの口碑を記している。

奈良県史



雲甘寺坐楢本神社

雲甘寺は音読也、楢本は奈良毛登と訓べし、〇祭神詳ならず○梨本巳郡尾村に在す、今野馬田明神と称す、(大和志、同名所図会)
類社
加賀國石川郡楢本神社
神位官社
三代実録、貞観3年10月22日壬戊、授霊感寺無位楢本神從五位下、同8年5月24日丁卯、以大和國平群郡雲甘寺從五位下楢本神列於官社、
大和志、当郡の仏刹に、雲甘寺霊感寺共に名称を挙ず、然れば遺跡だに絶たるならんか、猶尋ぬべし、

神社覈録



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