式内小社として『神名帳』に所載のほか古文献は乏しい。 大和川北岸、支流の竜田川との合流地点の小高い岡の中腹に鎮座している。 神岳神社は、神南即ち神奈備の邑にふさわしい岳である三室山(80m)に鎭座している。 この三室山を龍田の神奈備とする説もある。 手入れの良い神社で、大きい木々に囲まれている。 鎭座地である「神南」は、今「じんなん」と訓んでいるが、旧い「神なび」という言葉の転化したものではないかとの説が有力である。神奈備に神並、神南の文字が宛てられ、長年月の間に「じんなん」と訓ぶようになつたかと思われる。 「三室山」は、龍田川と大和川の合流地点に近く、標高約82mの丘で、県立竜田公園の一部に含まれ、桜の名所として知られている。古くは「みむろ」、「神南備(かんなび)」は神の居られた場所で、聖徳太子が斑鳩の宮へ移られた時、飛鳥の神南備も「三室山」へ移されたと伝。 |
神岳神社 当神社は法隆寺の西側にあたる三室山の中腹に位置し古代は社殿などの建造物はなく 自然の森や山を神地としての信仰であったといわれている。 聖徳太子は飛鳥より産土神(神名不詳)をこの地に安置し、 太子の勅願所として祭祀されていたがいつしか祭神は須佐乃男命を奉祀している。 須佐乃男命は別名を「牛頭天王」と呼び、内陣鳥居前には「牛頭天王」と刻んだ四基の 石灯籠がその歴史を今日に伝承させている。 旧村社、神岳神社は延喜式神名帳巻九(延長5年)に平群郡神岳神社と、また大和国平群郡神社 明細帳(明治12年7月調)にも社格を明記されている。 この社殿を構えるにあたり、拝殿より一段高い所に小規模の社殿は一間春日造(春日大社と同じ) の桧皮葺(老朽化により昭和61年銅板葺に改修)で身舎は円柱で前後に二分し、四面に 花鳥の透彫蟇股を組み随所に極彩色を施してる。組物は出三斗組で二軒繁棟木をうけている。 向背部は一間とし中備に蟇股を入れ身舎間は繁虹梁を用いず、手挟みで納めているのは 小規模な社殿としては類例が少ない。 向背垂木にほか浜床部分の壁板等一部の補修はしてあるが殆ど構造物の部材を残し木鼻、虹梁、 蟇股の絵様及び構造形式よりみて江戸時代初期を下らない構造物であるとの学者説である。 なお、古文書によれば境内地には神佛が習合する神宮寺の神南寺観音堂(通称上ノ堂ともいい 今も残っている小字上ノ堂の意味)があったが、神佛分離によって本尊地蔵菩薩、聖観音 菩薩の佛像は神南融念寺(恵宝殿)に安置されている。堂跡地とみられるあたりから「神南寺」 と刻印した屋根瓦片の出土があり保存していることを縁起にあわせて附記する。 平成16年11月吉日 社頭掲示板 |
神岳神社 竜田川の大和川への合流点北西、三室山山頂に鎮る室との意で、『万葉集』に「神岳に上りて山辺宿禰赤人の作れる歌一首の「三詣の神奈備山に五百枝さし・・・・324」とある。 祭神は素盞鳴命。付近に神宮寺とみられる紳南寺があった。今、集落中央の融念寺境内に三室堂が移された。本尊地蔵菩薩と聖観音像を安置、後者に延久元年7月11日等の造立銘があり、重要文化財に指定されている。 奈良県史 |
神岳神社 神缶は加美乎加と訓べし、○祭神詳ならず〇神南村に在す、(大和志、同名所図会) 連胤按るに、飛鳥神を祭れるにやあらん、万葉集三、登神丘山部宿禰赤人の歌、即ち飛鳥の神名備山を詠り、神南村と云ふも神號よりや唱へ初けん、 神社覈録 |