龍田川東側の丘尾にある。遠くからでもこんもりとした大きい鎮守の杜と背丈の低い鳥居が見える。 境内前は畑が広がり視界が広がっている、南を望むと二上山がよく見える。社地の南を小川が流れている。 紀船守が祖先である平群木菟宿根を祭神として祀ったのがはじまりとされる。 中世に「天児屋根命」を春日大明神として祀り、近世には天照皇大神と八幡大菩薩を祀った。 俗称「辻の宮、又椿の宮」である 社名からしても本来は紀氏がその祖神を祭祀したものであろう。 旧鎮座地は現社地より2kmほど南の椿井にあった(光照寺の南付近・矢田丘陵の西麓辺り)と言われている。 付近に所在する三里古墳(平群町三里)には和歌山県紀の川下流域に多く分布する石棚付石室が認められており、当社と合わせて紀氏との関連性が指摘されている。 |
平群坐紀氏神社由来 祭神 天照大神、天児屋根命、都久宿祢、八幡大菩薩。 例祭 十月 第一日曜 紀氏は紀伊国を本拠とし、大伴とも関係の深かった古代豪族で、紀角宿祢は平群木菟宿祢(都久)の弟である(古事記)また平群町三里の三里古墳は和歌山県紀の川沿岸に分布する石棚を有した古墳と同形式であり紀伊との関係がうかがわれる。当社は俗に辻の宮、椿の宮と称し、江戸時代初期の石灯籠には春日大明神と刻んである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
平群坐紀氏神社 延喜式神名帳に平群坐紀氏神社と記載のある式内大社で、近世には辻の宮、椿の宮とも呼ばれていた。祭神は平群木菟宿根で、紀船守(紀氏もしくは平群氏の末裔)がその祖、平群木菟を祀っている。中世には春日神社にもなっていた。本殿は春日造りで朱塗り、銅板葺き。延宝七年(1679)の石灯籠が最も古く、境内春日神社の鳥居は元禄15年(1702)の寄進。 上庄・椣原・西向の3大字の氏神で、境内には3つの座小屋があり、その座小屋は拝殿を囲むように配され、北が上庄大字、南が西向大字、拝殿と相対する西側は椣原大字の座小屋である。 南北の座小屋は土間であるが、中世の荘園平野殿庄の関係で役人を招待した椣原の座小屋だけは床板が張られている。 社地が椿井にあったとの記録もあり、そこから現在地に移された可能性もある。 社頭掲示板 |
平群坐紀氏神社 上庄に所在する式内大社で、正式名は平群坐紀氏神社、別名辻の宮とも呼ばれる。 紀氏の創建で、平群氏の祖・木莵宿禰を祀り、中世には天児屋根命を祀る春日大社(春日大明神)とされていた。 現在、上庄・椣原・西向の氏神で西向きの本殿、拝殿に向かって三方にそれぞれの「宮座(座小屋)」が置かれている。 毎年3月1日に増産を願う呪術的行事がある。 境内には石鳥居や石灯籠、狛犬等の石造文化財があり、そのうちで延宝2年(1674)銘の石灯籠が最も古いものである。 平群町観光HP |
平群坐紀氏神社 祭神 天照大神 天児屋根命 都久宿祢 八幡大菩薩 紀氏神社由来 旧村社「延喜式」神名帳平群郡の平群坐紀氏神社に治定、当社は平群に居住した紀氏の名をとって名付けられたことは大長元年の奏上から明白で創建はそれ以前と考えられる。 紀角宿祢は平群都久宿祢の弟であるが紀氏の平群の勢力については明らかではないが大字三里古墳は紀州紀ノ川沿岸に分布する石槨を有した古墳と同形で紀伊との関係がわかるのである。 又当社は俗に「辻の宮」「椿の実や」と称し江戸初期の石灯に春日大明神を刻む。 例祭は10月吉日で上庄・椣原・西向が祭祀にあづかる。 雄略天皇の時代から平群谷臣「真鳥」ら大臣の人物を出した古代豪族平群氏の本願地であり同族紀(木)氏も同じ平群谷に居住していたようである。地形的には隠口型の自然要塞でしかも盆地中央を流れる(平群川)竜田川は水上の交通機能ももちあわせていたといえる。 平群真鳥の子鯖は武烈天皇と影媛の取りあいで殺され平群族は衰退したのである。 命の全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 熊白橿が葉を 髻葉に挿せその子。 社頭掲示板 |
平群坐紀氏神社 名神大月次新嘗 平群は前に同じ、紀氏は伎宇智と訓べし、○祭神紀直祖歟○上荘村に在す、今辻宮と称す、(大知志)○式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國平群坐紀氏神社一座、○姓氏録、(河内国神別)紀直、神魂命五世孫天遣根命之後也、」同、(和泉國神別)紀直、神魂命子天御食持命之後也、 考証、比保古等、姓氏録左右京皇別紀朝臣の祖とす、恐らくは然らじ、今は紀朝臣の祖は、平群神社として其処に引り、 神社覈録 |