集落の奥。尾根の頂きに近い小社。本殿からの見晴らしよい。武内宿禰が神功皇后とともに朝鮮出兵前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。 「平群神社五座」とあるが五座の神は不詳、平群氏の祖を祀っているか。 当社境内右側(東)に社務所があり、元西宮密寺と称する神宮寺のあつた所で、明治維新の際に「融通念佛宗、釆迎寺」に合祀されている。 |
由緒記 本社御祭神 大山祇神 境内社御祭神 天照大神 由緒 御祭神大山祇神は山野を司どる神で、平群氏の祖武内宿根が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に祀ったと伝う。 のち五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰を集め今日に至る。 延喜式神名帳に「平群神社五座(並大。月並、新嘗)」とあり神宮寺としても龍華山西宮密寺があった古い社格の神社である。 秋季大祭10月15日 社頭掲示板 |
平群神社 西宮集落の北端に鎮座する神社で、式内大社にあてられている。 祭神について明治の「明細帳」や昭和の「宗教法人登録記」には大山祇神と記している。嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疏」には平群氏の租神で、供僧二人神人六人とあるが、『延喜式』神名帳に祭神五座とあることについて、池田源太氏は『平群町史』に、最初は一座か二座であったのを平群氏氏人の尊信からかなり時代の下がった時、その祖神または関係神を添加したのではないかと考えられている。延宝7年(1679)の「検地帳」や天保3年(1832)の「西之宮村報告書」からみると、近世は春日大明神と呼ばれていたことになる。境内右側の社務所の位置に、元西宮密寺と称する神宮寺があったが、明治の神仏分離で廃絶した。「竜花山西宮密寺」の扁額「正徳元年露月28日西宮密寺住持元始如記」と不動明王・両界曼荼羅・十三仏画像は今、付近の来迎寺(融通念仏宗)に保管されている。 奈良県史 |
平群神社 へぐりじんじゃ 奈良県生駒郡平群町西宮。旧村社。俗に西の宮といい、天保3年(1832)頃は春日大明神と称した。「延喜式」に「平群神社五座(並大新嘗)。」とある。祭神を大山祇神とするが、「大和志料」には「詳ナラズ」とみえ、五座を何にあてるか不明。雄略即位前紀に、平群臣真鳥が大臣として活躍し、平群の臣の始祖とする木菟宿彌は応神天皇3年、百済王の無礼をとがめに百済へ遣わされた。この鎮座地周辺は、5〜6世紀にかけ、平群氏の地盤であったと思われる。 神社辞典 |
平群神社五座 並大月次新嘗 平群は前に同じ○祭神平群朝臣祖歟○在所詳ならず、或曰西宮村西宮是也、(大和志、向名所図会)〇姓氏録(左京皇別上)石川朝臣、孝元天皇皇子彦太忍信命之後也、また紀朝臣、石川朝臣同祖、建内宿禰男紀角宿禰之後也、」同、(右京皇別上)平群朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰男平群都久宿禰之後也、また平群文室朝臣、同都久宿禰之後也、また紀朝臣同祖、屋主忍雄建猪心命之後也、 神社覈録 |