元は西南の「杜さん」と呼ばれた瀧の傍にあり、「瀧の宮」と呼ばれたという。 近世は午頭天王社、滝の宮と称した。宮座あり。小川に囲まれた独立丘の上にあり。 この瀧宮には、神武天皇が長髄彦征伐の折に雨を祈られたとの伝承がある。大和の山口十四社の一として、風雨害を除去する祈願社として皇室の崇敬が篤かつた。延喜式「臨時祭」の「祈雨神祭八十五座」の一座である |
生駒山口神社 御祭神 素盞鳴命 櫛稲田姫命 由緒 延喜式生駒山口神社は古は大社にして新嘗祭には勅使参向朝廷幣帛献進されるを例とした。古書に伊古麻山口神社と記されてあるが、何時の時代よりか不詳なるも現在の神社名を称されるに至った。 県下式内社14神社の一つで瀧の宮の別名がある。 社頭掲示板 |
櫟原のオハキツキ 奈良県指定無形民俗文化財 毎年10月第土日曜に秋の大祭が行われます。本来は15日、16日であったが祭日に移行されています。大祭に先立ち、「御はき築き」と呼ばれ、祭神をお迎えする本当家宅庭に朝顔型の祭壇の「オハキ」を一日がかりで作ります。かっては十人ずつ二組に分かれ、兄頭屋、弟頭屋という構成で二つの「オハキ」を作っていましたが、平成元年から五垣内の座構成になり、年番で交替し一年間を担うようになっています。垣内から選ばれた本当家と補佐役である敬用人、マジリコと呼ばれる衆らで行われます。漆の木で作った鳥居を乗せた大きなオハキの四方には青竹を立て、注連縄を張り、周囲に砂を敷きつめた玉垣で囲い神さんが宿る杜ができあがります。夕刻、同神社から宮司が来られて、お祓いや塩で清め厳かに神事が行われます。 宵宮では、頭屋が白木の御(親神)を持ち座衆とともに神社へ行き御霊移しを行う。そして丑の刻に、頭屋は根のついた稲束を頭から被り、残った一本の白木の御幣(姫神)を持って神社へ行き真っ暗の中で霊移しをする。 社頭掲示板 |
生駒山口神社 櫟原川に沿い、鳴川千光寺への旧道と向浦より鳴川への三叉路丘陵上に鎮座する式内大社で、現祭神は素戔嗚命と櫛稲田姫命。『大和志』には今滝宮と称すとあるが、近世には牛頭天王社と称し、元は西南の滝近くにあったという。永享6年(1434)2月焼失したので、同年1月再建したと宝永2年(1705)の本殿棟札に記されている。式内伊古麻山口神社として『三代実録』貞観元年(859)正月27日に従五位上に昇叙、同年9月8日、風雨を祈って隋使奉幣された。大和国内の山口十四社の一として、風雨の順調を祈願する神社として皇室の崇敬が篤かった。延喜の制では大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預かり、延喜四時祭式の祈年祭の条に「胆駒山口社、加馬一匹」とあり、臨時祭には祈雨神祭八十五座の中に「胆駒山口社一座」として特別の奉幣があった。「神社覈録」や「特選神名牒」にいうように本来の祭神は大山祇命であったことは、「日本惣国風土記」に「圭田五十六束七字所祭大山祇也」と記されているように、恐らく生駒山系の守護神であったとみられる。宝永の「寺社御改帳」に「牛頭天王社」として「右氏神之境内ニ在之候寮ノ梁行弐間半桁行四間半宮ノ守と申し相鞆申候看主差置申候古来ハ神宮寺と申寺号在之之申申伝へ候も只今ハ宮寺と唱申候」と真言宗の宮寺があった由、記されている。10月2日頭屋の家に前もって作られた神の依代である「オハキ」(御刷毛)に神霊を奉迎して祀り、9日深夜稲束の笠を破った頭屋が「ゴヤオクリ」と称して神籠った「オハキ」を神社に神送りして翌10日祭典が行われる。神霊の送迎奉祀する頭屋とケヨニン(継人か)は、社前の禊場の礫川渓流で禊を続ける習わしである。 奈良県史 |
生駒山口神社 奈良県生駒郡平群町櫟原。 旧村社。素盞鳴命・櫛稲田姫命を祀る。 生駒は伊古麻・膽駒とも表記される。10月10日の例祭の前日に「オハキツキ」という特殊神事がある。 神社辞典 |
伊古麻山口神社 大月次新嘗 伊古麻は假字也、山口は夜麻久知と訓べし、○祭神山神大山祇命〇櫟原村に在す、今瀧宮と称す、(大和志、同名所図会)○式一(四時祭上)祈年祭條に、膽駒山口加馬一匹、』同三(臨時祭)祈雨祭神八十五座、(並大)云々、膽駒山口社一座、」猶添上郡夜支布山口神社の下見合ナベし、 類社 山城國愛宕郡賀茂山口神社の下見合すべし、当國十三箇社あり、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下伊古麻山口神正五位下、 官幣 三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和國膽駒山口神、遣使奉幣、為風雨祈焉、 神社覈録 |