龍田神社
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   【延喜式神名帳】龍田比古龍田比女神社二座 大和国 平群郡鎮座

   【現社名】龍田神社
   【住所】奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6
       北緯34度36分28秒,東経135度43分29秒
   【祭神】天御柱命 國御柱命 (合祀)竜田比古神 竜田比女神
   【例祭】 10月15日近い日曜日 秋季大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】延慶3年(1310)12月13日龍田宮楼門棟上在之施主幽玄『法隆寺別當次第』
       明治の神佛分離令により、法隆寺から離れ、立野の本宮の摂社と称した
       大正10年請願の結果、県社に昇格し
       大正11年3月、本宮より分離独立した

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地であろう

   【祭祀対象】
   【祭祀】社名の変更もなく伝わっている
   【社殿】南向(本殿)流造桧皮葺
       東より三大神、天御柱神・国御柱神、龍田比古・龍田比売神、瀧祭神
       の順にまつられている
       

   【境内社】地主神社・川合神社・恵比須・廣田・祇園・堪山姫
       粟島・稻荷・春日


崇神天皇の代に創立され、法隆寺の鎮守であった。
聖徳太子が法隆寺を創め給うに当り、三宝の擁護伽藍の鎭守として立野の天御柱国御柱神社よりこにに勧請した。
後世龍田大社の2神を勧請したために本来の竜田比古大神・竜田比女大神は忘れられた。
社地の北方に御廟山といふ小丘があつて、これが龍田の神奈備であり、ここから南麓の現在地に宮造りして遷したもの。
明治以前は、法隆寺から当社に別当坊を置き、例祭には、30口(30人)の僧侶を供し、荘嚴な法会を勧修し、龍田会または龍田三十講とも称された。
境内に大和猿楽四座の1つ、坂戸座を源流とする 「金剛流発祥之地」の石碑が建つ。


由緒沿革

産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂と龍田比古大神、龍田比女大神、陰陽二柱の皇神である。風雨を鎮め水難・疫病を防ぐ神と 楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。延喜式神名帳記載の龍田地主大神である。他に末社として十二社を祀る。
大和川の北岸、風光明眉な楓の竜田川の北東の神奈備、御廟山の南麓に鎮座し敬神の中枢である。十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を「朝日日照處、夕日日陰處」竜田小野である龍田山の聖地に大宮柱太敷立鎮座された。たまたま聖徳太子(十六才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来られて平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を探し求められた。その時聖徳太子は椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、まだらばと(斑鳩)で指示して貰った地を法隆寺建設地とされた。即ち「こゝから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られた。その后、法隆寺より法施僧(別当坊)三十口(三十人)を給ひ、竜田三十講、平群四十八郷(当時の平群四十八郷は現在の生駒郡、郡山市も含む)の産土神として荘厳なる祭儀が執り行なわれた。(聖徳太子伝私記)それで法隆寺は竜田神社の社務を管理してきたもので、神社の由緒、祭礼、神田等法隆寺の記録に出ている。
中世の有様は「嘉元記」に竜田参りや、田楽、猿楽について詳しく伺われる。一説に能楽発祥の地とする学者もある。中世は現在の建物の外に、東には塔と経堂があり、門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊、等各坊屋敷が集っていた。拝殿の東側には神仏分離の時代に醍醐へ持って行かれた胎金堂(大日堂)があった。楼門の西には北房、いなばや、与三郎屋、その他鐘楼、とかり屋、みさと屋、観音堂、高安座等十二座等あり、荘厳、広大な規模を持った神宮寺であった。(神社古図)歴代天皇の崇敬殊に厚くしばしば勅願の御寵遇を受けたのもむべなるかなといえる。古来より竜田は神代の竜田として紅葉の勝地でもある。萬葉の御代よりかくれた静かなこの旧蹟を、この神社を訪れる文人、歌人の雅客は絶えない。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




創立の伝承

十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時帝自ら卜占をもって占い、天神地祗を「朝日日照処、夕日日陰処」龍田小野である龍田山の生地に大宮柱太敷立鎮座されました。たまたま聖徳太子(16才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来られて、平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を捜し求められていました。
 その時、聖徳太子は、椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、指示してもらった地(斑鳩)を法隆寺建設地とされました。
 「ここから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られました。


蘇鉄

奈良県の天然記念物「蘇鉄の巨樹」が植わっています。平安時代の初期に植えられ、樹齢1200年、根周り5.7m、 最大樹幹2.7m、高さ6.3mも有ります。株の基部及び樹の幹から8本の分枝幹が出て、雄花は長さ50 cm、直径が10cmの円柱状、くさび形の鱗片が螺旋状に付き、その下に多くの葯(やく)を付けます。


龍田比古龍田比女神社二座

龍田は前に同じ、比古比女は假字也、○祭神立野坐神に同じ○龍田町に在す、今新宮と称す、
○祈年穀廿二社本宮に准ず
諸社根元記、(龍田條)又云、龍田比古龍田比女神社とのみあり、廿一社記、廿二社本緑、同注式共に詳ならず、」祝詞考に、天御柱国御柱の二神と、龍田彦龍田姫二神を、神名式に別に挙ケ、今も別社に齋奉るは、和魂荒魂のよしか、又一神も二名おはするは、其功に依て、別に齋ふ類ひなるか云々、右は別神にはおはさざる也、と云るは然るべし、尤立野坐神の和魂なるべし、考証に、四坐同宮地、今法隆寺坤別称龍田者離宮也、大和志にも、倶在立野村云々、神幸之地、在龍田村旧名御憩所、今建小祠称曰新宮、と云る共に拠を知らず、

神社覈録



龍田神社

奈良県生駒郡斑鳩町龍田。旧県社。聖徳太子が法隆寺を建立しようとして龍田明神(龍田大社)の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、本宮の分霊を勧請し、平群郡神として祀られた。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。法隆寺から当社に別当坊を置き、例祭には30人の僧侶を供し、龍田三十講ともいわれたという。
祭神は大社と同。例祭も同じく4月4日。

神社辞典



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