現在の登弥神社は、「木嶋大明神」と通称されている。 富雄川の東岸の樹木の繁茂した小高い丘に鎭座する。 東社殿に、高皇産霊神・誉田別命、西社殿に、神皇産霊神・登美建速日命・天児屋根命を祀る。 かって、この地方には豪族長髄彦が天孫饒速日命を奉じて勢力を振い神武天皇の軍と対峙した。 神武天皇4年春2月23日、鳥見山中に神武天皇は皇祖天神を祀り、神恩に感謝の祭を斎行したが、その場所がこの地であったと伝承されている。 また、当神社神域は饒速日命の住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説がある。 後饒速日命の子孫である登美連が、ゆかりのこの地に先祖である饒速日命御夫妻と併せて天神地祇をお祀りしたのが当神社のご創建である。 矢田坐久志玉比古神社から分霊との説がある。 |
登彌神社略記 御祭神 東本殿 高皇産霊神、誉田別命。西本殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋命。 境内地 二町七反三畝二十六歩(二七、一六一平方米) 御由緒 延喜式内社、古来木ノ島大明神又は鳥見明神として古人の崇敬篤く、昭和十四年十二月二十七日には、その由緒の故を以て県社に列せられております。即ち当社の由緒は大変古く悠久の昔、遠く神代の時代にまで溯りますが、当時、この地方には豪族長髄彦が天孫饒速日命を奉じて勢力を振い、為に、御東征の神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)は度々苦戦されましたが、奇しくも瑞鳥金鵄の出現と饒速日命の忠誠により、遂に長髄彦を破り大和平定の大業を完遂されました。やがて、天皇は、紀元四年春二月二十三日、鳥見山中の霊畤で、皇祖天神を祀り、神恩に感謝の祭を斎行されましたが、その場所が、この地であったと伝承されております。尚当神社神域は饒速日命の住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説もありますが、その後饒速日命の子孫である登美連が、ゆかりのこの地に先祖である饒速日命御夫妻と併せて天神地祇をお祀りしたのが当神社のご創建であらうといわれております。その年代は、詳ではないが慶雲二年(七〇四年)枚岡明神の春日遷幸の折当地に暫しお休みになりました縁故を以て、和銅年間春日明神を勧請せりと記録にもあり奈良朝のかなり以前より既に創建されていたことは想像に難くありません。亦今より約八五〇年前(一、一二〇年余)には瀧台山瀧寺の鎮守であったと見え、その時の方丈であった俊恵法師が河内より仏師を迎え御神像を造らしめて奉納せりと伝えられておりますが、この御神像は木彫で今も御神体として殿内に奉斎してあります。御祭神は世の変遷に伴い多少変動はあったようですが現在は造化の神であらせられる高皇産霊神、神皇産霊神と、春日明神であらせられる天児屋命、八幡宮であらせられる誉田別命並びに天忍穂耳命の御子で、天孫天津彦火火瓊々杵尊の御兄で、大和平定に大功のあらせられた饒速日命等五柱の大神等を東西の二本殿に奉斎し、左右の小宮には摂社として天照大神、豊受比賣神等十七柱の神等を合祀、併せて二十二柱の神々を奉斎してあります。このように、ゆかりの神々をお祀りしてありますが、御神徳の発揚も極めて顕著でありましたので時の藤原氏、梶井宮院或いは豊富大納言秀長等の有力者の尊崇も深く、神額、紋入桃灯、絵巻、塀地門等を寄進されたとの記録も残っております。亦、文政三年(一、八二〇年)十一月十五日の社殿焼失の際には不思議にも御神体は庭前の松の枝に留り給い、而も、独り神主左平次のみ認めえたということであります。 昔、城村は古屋敷に一村としてありましたが、或る時、年番の夢枕に「洪水あり、速く立ち退くべし」とのお告げがあり、直ちに川の東西に分れてその難を免れたとの言い伝えもあります。亦祭費の乏しいのを憂いました時にも社の裏山に松茸は多く生ぜしむるにより祭費に充てよと夢のお告げが神主にあり、果してその年の松茸は豊作であったと云う不思議な話も語り伝えられております。徳川時代の旧記によればその頃神域は広大で、鬱蒼たる森林九町余に今の主水山には春日大社の一の鳥居を移した大鳥居が建立され、それより内二町余は馬場であり、お祭りには爪揃競馬が催されてなかなか賑ったそうであります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
登彌神社 御祭神 東本殿 高皇産霊神、誉田別命 西本殿 神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋命 攝社 大日命、豊受比賣神、天宇受女神、大山祇神、庭高津日神、大物主神、菅原道真公、猿田彦神、大己貴神、八重事代主神、瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良姫神、気吹戸主神、表筒男神、中筒男神、底筒男神、併せて十七柱の神々を五社殿に合祀さる。 御由緒 皇紀四年、春二月二十三日、神武天皇が、この地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのが、そもそもの淵源であり、その後、登美連が、祖先である天孫饒速日命の住居地−白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが、当神社のご創建であります。 社頭石碑 |
登彌神社 御祭神 通称木島明神といい、延喜式内小社で物部氏の祖神饒速日命を祭神とし、神域幽玄神殿もきわめて壮大であり太古大部族の祖神を祀るにふさわしいたたずまいである。又付近丘陵は弥生時代遺物の散布地帯である。 社頭掲示板 |
登弥神社の粥占い 奈良市指定文化財(昭和57年3月1日指定) 農作物の1年間の出来具合いを粥で占う行事です 古くは毎年小正月に行われ、現在は2月1日に行われています 社頭掲示板 |
登弥神社の粥占い 奈良市指定文化財 登弥神社の粥占い 昭和57年3月1日指定 粥占いは、粥を用いて農作物の出来を占う年中行事です。 登弥神社ではもとは小正月の行事でしたが、今は2月1日に行います。 氏子が毎年交代で、早朝から、米・小豆と、青竹の筒三七本を束ねたものを、湯釜で炊きます。一時間あまりで竹筒を引き上げ、農作物の品目ごとに竹筒を小刀で割り、粥の入り具合でその年の作柄の良否を占います。 豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして、古風な形態をよく残していて貴重です。 奈良市教育委員会 社頭掲示板 |
登彌神社 登彌は仮字也、和名鈔、(郷名部)鳥見、(印本見を貝に誤る、さて止利加比と仮字あるは、後人の加筆ならん)○祭神詳ならず○鳥見庄木島村に在す、(大和志、同名所図会)○日本紀、神武天皇戊午年十有二月癸巳朔術申、皇師遂撃長髄彦、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也、』姓氏録、(左京神別上)登美連、速日命六世孫伊香我色乎命之後也、」同、(河内国神別)鳥見連、饒速日命十二世孫小箭宿禰之後也、 類社 当國城上郡等彌神社 神社覈録 |