菅原集落の内に菅原寺という古寺を存し、それに隣接して当社がみられることからすれば、当社が延喜式内社であることは、ほとんど疑う余地がない。菅原集落に近い伏見小学校からその東側にかけてのすこし小高い丘陵地は、俗に「アヂチ」と呼ばれている。アヂチはハヂチで、「土師の地」のことであろうか。 土師氏は、この菅原の地を一つの本処としていた。そのため、この地に祖神天穂日命や野見宿禰を祀つたのである。 現在の当社の信仰圏と古代の土師氏の分布はほぼ一致する。 当社を菅相公降誕の地(誕生池というものが、当社より約100m東にある)と称しているが、これは菅家の旧館であつたものを、世の遷転により、菅原道眞の誕生所と誤つたためらしい。菅公誕生所というのは、道眞より以前の菅公のことをいつたのであろう。 2002年に菅原神社から菅原天満宮に改めた。 |
菅原天満宮 当社は、菅家一系三神を祀る由緒正しい神社である。 天穂日命は菅家の始祖とせされ、天下泰平、国土安泰、五穀豊穣の守護神である。その子孫で中興の祖である野見宿祢は菅原の地を本官とし、その豊かな赤土と松樹を活用して土師器や埴輪の製作に従事していた。 垂仁天皇の皇后(日葉酢媛命)崩御された時、当時悪習であった殉死を取り止め、替わりに埴輪を埋めるべく建言した功績により、垂仁天皇より土師臣の姓を賜った。土師氏はここを本拠地とし各地に勢力伸展していった。(最近の発掘調査で、埴輪を焼いた窯跡が発見され、平成12年3月奈良市指定文化財「菅原はにわ窯跡公園」として、阪奈道路沿い神社より東へ400m)。また、当麻蹶速と力競べをし、これに勝ち角力の始祖としても知られている。 その後、土師家は大喪の事を掌っていたが、その子孫の土師古人他が天応元年(西暦781年)この土地の名「菅原」と改姓を願い出、勅許される。以後三代後に菅原道真公の出生となる。 菅原道真公は野見宿祢第十七世の子孫である。参議従三位是善の第三子で、生来聡明にして文学に長じ、貞観年中には文章得業生となり累進して文章博士となる。宇多天皇の寵愛を得て遂に参議に任ぜられ、民部大輔左大弁勘解由長官となった。その後遣唐使を拝命した。醍醐天皇の昌泰2年(西暦899年)に右大臣に重用された。その後、故あって太宰府に転じたが、これを機にいよいよ詩歌の道にいそしみ、文筆に励み広く学芸の神と仰がれるにいたった。とくに晩年は、類従国史二百巻を編さんし多くの史書や詩歌の書を筆わし、その博学ぶりを発揮した。 道真の没後は全国各地に道真を祀る神社が設立され、世に道真を天満大自在天神と崇め奉るにいたった。 その中にあって、菅家発祥及び生誕の地 当菅原天満宮と、終焉の地 太宰府天満宮及び京都の北野天満宮は最も重要な神社とされている。こうしたゆかりを以って世の人々は、道真の神徳にあやかり、学徳成就の祈願は言うまでもなく、文筆にいそしむ人々の信仰は殊に厚い。当菅原天満宮境内には立派な筆塚が建立されている。 菅原道真の産湯池と伝えられる遺跡が神社の東北約100mのところにある。道真の母君が京都からこの菅原の故地に帰参して産みたもうたもので、この遺跡はもとの菅原院の一部といい、池中の島にこの由緒を刻んだ碑が建っている。 公式HP |
お田植え祭りと筆祭り 菅原天満宮では、毎年2月25日にお田植祭(おんだまつり)が行われる。当日は、拝殿の西南の一画にしめ縄を巡らす。これを斎田と見立てて正面に御幣を立てると、米や酒、餅などを供える。そして、田主が翁の面をつけ赤たすきをかけて、小桶の中から籾や小豆などを取り出し御幣の根元に蒔く。その後、牛の面をつけた牛童子と一緒に肥料を施す所作と続き、参詣者めがけて桶の中の種子を蒔き散らして終わる。 さらに、毎年3月25日の午後には、筆祭りが催される。祭りでは、近隣の住民が持ち寄った使用済みの筆を新しい筆と交換してくれる。筆塚の前では護摩が焚かれ、筆造りの始祖に感謝し、日頃愛用の筆を護摩檀に投げ入れて供養し、書道の上達や書業の発展を祈願する。一筆書きや、筆作りの実演、即売会も行われる。 |
菅原天満宮 祭神 天穂日命 野見宿禰命 菅原道真公 当菅原天満宮は、菅家発祥の地にあり、創建は不詳ですが、菅家一系の三神を祀られている事から古くより在ったと思われます。 祭神 菅家の祖神、天穂日命は、天照大神の御子であり、中興の祖、野見宿禰命は、垂仁天皇の后、日葉酢媛命が崩御された時、古来悪習であった殉死を無くし代わりに埴輪を造り埋めるべきと建言、その功績により土師臣の姓を賜った(平成2年発掘で実証され現在菅原はにわ窯公園となっている)また、当麻蹴速と力比べをしこれに勝ち、相撲の始祖としてもしられている。 その後土師家は大喪を掌っていたが、天応元年(781年)その子孫である土師宿禰古人、土師宿禰道長等百十五名が居住地である菅原の里の地名をとって土師家より「菅原」姓の改称を願い出、勅許される。 爾後、古人、清公、是善と続き承和12年(846年)6月25日、菅原道真公の誕生となり、当神社東100mには道真公が産湯に使ったとされる天神堀がある。その後菅原家は出世の一途をたどりつつあったが藤原家との争いに敗れ道真公は太宰府に左遷され、延喜3年(903年)2月25日、59歳で薨じた。没後天神縁起でも知られるように天神信仰が隆盛になり、学問の神、書道の神、難除けの神と崇められ菅原の天神さんと親しまれている由緒正しき神社である。 宮司 中村信清 平成22年6月記 社頭掲示板 |
菅原神社 すがわらじんじや 奈良県奈良市菅原町。旧郷社。式内社である。『和名抄』に「大和添下郡菅原郷」とあるところである。天穂日命・野見宿禰・菅原道真を祀る。土師氏の氏神として鎮座、道真は後に配祀されたとも伝える。この地は野見宿禰の宅跡で道真がここで生誕したという伝承も存する。例祭10月9日。 神社辞典 |
郷社 菅原神社 祭神 天穂日命 野見宿禰 菅原道眞 いざここに我世は経なん菅原や伏見の里のあれまくもをし(古今集)、本社創建の年代詳かならず、然れども世に菅原天神と称し、土師宿禰の祖廟たり、景行天皇元年鎮座し奉る所なりといふ(社記神祇志料)蓋し菅原の地は垂仁天皇の朝、皇后日葉酢媛命薨去の時、野見宿禰が土偶の功を奏せしより、土師の姓を賜はり、其子孫亦祖業を承けて代々此地に居り、山陵の事を掌れり、其後光仁天皇天応元年、土師宿根古人道長等奏請して土師の姓を改め、其地名をとりて菅原の姓となせり(社記続日本紀)是によりて之を観れば、菅原の地に野見宿根以来代々永住の所にして、其間何れの時にか祖廟を建立して、之を祭りしなるべし、又菅原寺の鎮守神として神領十六石を寄進せらる(社記)、醍醐天皇延喜の制小社に列し、明治に至り郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、神饌所、権殿、土蔵、休憩所、厩方等を具備し、境内515坪(官有地第一種)、菅原伏見東陵の北方に位し、老樹鬱蒼として高く天空に聳え、古色蒼然実に千古の神境たり。 宝物は渡宋天神像、両刃劔、菅公所用の硯、同装束、菅公木像等あり、2月25日(祈年祭)4月25日(菜花祭)には、信徒より初穂を持ち來り、特有の神事式を執行す。 明治神社誌料 |
菅原神社 菅原は須賀波良と訓べし○祭神菅原朝臣祖天穂日命歟○菅原村に在す、今菅原天神と称す、(大和志、同名所図会)○姓氏録、(右京神別下)菅原朝臣、土師朝臣同祖、乾飯根命七世孫大保度連之後也、また土師宿根、天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也、光仁天皇天応元年、改土師賜菅原氏、有勅改賜大枝朝臣姓也、 類社 越後国頚城郡菅原神社 神社覈録 |