添御県坐座神社(三碓)
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   【延喜式神名帳】添御県坐神社 (大 月次 新嘗) 大和国 添下郡鎮座

   【現社名】添御県坐座神社
   【住所】奈良県奈良市三碓三丁目5-8
       北緯34度41分15秒,東経135度44分21秒
   【祭神】建速須佐之男命 武乳速之命 櫛稻田姫之命
   【例祭】10月第3土曜日 例大祭
   【社格】
   【由緒】天平2年(730)の大和国正税帳に記載有り
       貞観元年(859)5月 從五位下から從五位上『三代実録』

   【関係氏族】添県主 小野氏
   【鎮座地】

   【祭祀対象】添御県の国魂神
   【祭祀】江戸期は午頭天王社と称されていた
   【公式HP】 添御県坐座神社
   【社殿】本殿(重要文化財)は、五間社流造、正面千鳥破風
       永徳三年(1383)の建立
       拝殿・神饌所・参籠処

   【境内社】大国玉神社・天香久山神社・蛭子神社・龍王神社
   【別当】当社北隣に別当寺の真福寺があったが、寛政三年(1791)にはすでに無住であった(富雄町史)。


大和国の六つの御県の一つ、添御県に祀られた神。
添御縣の国魂神を添縣主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の末裔)が祀っていたものであるとされる。
富雄川の流域 東の小高い斜面にある。
江戸期は午頭天王社と称されていた。御神体とする御正体の鏡の裏に、中央の間は八王子、向かって右の間には牛頭天王、左端の間には婆利采女と刻銘がある。牛頭天王と婆利采女はそれぞれ速須佐之男命、櫛稲田姫之命の仏教的な呼び名であるが、 中央の間に八王子と刻銘のあることは、修験道との関連をも推察させるようであるが、明らかでない。
大和国の六つの御縣の一つで、添御懸に祀られた神で、恐らくは、その国魂神を添縣主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の末裔)がまつつていたものであろう。


添御県坐座神社

神社 由緒 と 沿革
◆読み方と意味
  古代以来、大和の国の中に添(そう)郡といわれる郡があり、古代の文書には「曽布」などとも記されましたが、 今の奈良市、生駒市や旧生駒郡、添上郡を含む地域に当ります。広大な郡で、人口も多くなったので後に 添上、添下(そえしも)の両郡にわかれました。当神社の場所は添下郡(現在の生駒郡)にあたります。
 次に県[あがた]とは、大化改新以後、朝廷の直轄地として設置され、ここは主に皇室に木材や薪を納めていた 料地のため御県(みあがた)と言われましたので「添郡に設置された御県」を護る神社という名称になります。
◆◆歴 史
 平安時代初期に編纂された「延喜式神名帳」という全国の神社総覧によりますと、当神社は、月並祭や新嘗祭(にいなめさい)に  朝廷からお供え物の布類を奉られて「大社」という格式を認められた神社と記されています。従って、延喜年間(901〜923AD)に既に存在していました。  一説には、三祭神のうち武乳速之(たけちはやの)命は添御県の一帯を開発し、治めた豪族の祖先神とされ、起源は奈良時代以前まで遡ることができます。
 その後、富雄川流域でもこの一帯は古代豪族の小野氏の末裔が治める村里となっていました。
 当神社に隣接する根聖院の境内には三碓(みつからうす)の地名の起源となったと言われる三連の窪みのある石が置かれていて、  これが古代の唐臼の残欠と信じられています。
 創建時期から中世初めまでの詳細は不明ですが、昭和41年の解体修理の際に殿内から墨書が発見されて、現在の社殿が南北朝時代末期(室町時代初期)  の永徳3年(1383年)建立と判明しました。また、残っていた棟札などから次のような修理が行われたことも判りました。
造営、修理の記録
永徳3年(1383)11月9日(再建)、永正10年(1513)(修理) 寛文5年(1665)(修理、以下同じ)、文政3年(1820)昭和41年(1966)12月
 現在は、昭和25年、文化財保護法により国の重要文化財に指定されています。
 神社建築で、南北朝時代にまで遡れる建造物は全国でも珍しく、貴重なもので、これを保護する「覆い屋」が古くから何代かにわたり設置されていた為と考えられます。
 建築形式は五間社流造(ごけんしゃながれづくり)と言い、柱間が五つに分かれ、 屋根が一方に大きく流れ、内部も五区画に分かれており神坐の在る部屋の上には破風が三ケ所 付いています。柱は繊細な室町様式を伝えています。
現在の本殿
正面の中央と両脇に千鳥破風を設け、中央の間と両側の間を神座とし、相の間は、羽目板の上を竹の節欄間とし、一間社社殿三殿を並列した形態を示している。本殿は室町時代の典型的な手法を示すものとして、明治40年に文化財の指定を受けている。
 建立年代は、南北朝時代永徳3年(1383)であることが判明。
 昭和40年〜41年にわたり建立以来初めての解体大修理を行う。

公式HP



【文化財】

添御縣坐神社本殿 重要文化財(建造物) 永徳3年(1383) 五間社流造、正面三個所千鳥破風付、檜皮葺

社頭掲示板



添御県坐神社

添は曽布とも表記される。
『新抄格勅符抄』に「添御県神二戸」とある、延喜式内の論社として次の二社がある。
@奈良市歌姫町御県山。旧村社。添御県神を祀る。例祭10月9日。
A奈良市三碓町。旧村社。武乳速命・速須佐之男命・櫛稲田媛命を祀る。本殿は室町期のもので、千鳥破風つき流造り重文である。『神祇志』に「添御県坐神社ハ今、鳥見荘三碓ニ在リ」、『大和志』に三碓村ニ在リ。今、天王ト称ス」とある。例祭10月13日。

神社辞典



添御県坐神社の概要

祭神三柱
建速須佐之男命 この神社の主祭神
武乳速命 当地の県主(古代の領主)の祖先神
櫛稲田姫命 主祭神の后神
この神社の名称は、「大和の国の添郡に設置された県に鎮座する神社」を意味する。
鎮座の年代は詳らかではないが、およそ千四百年前に遡ると推定される。
明確になるのは平安時代初期で、朝廷が編纂した全国神社名鑑である「延喜式神名帳」に大社の格式を認められた神社として記載されている。
本殿は、山を背に西を向いて建っており、様式は五間社流造、正面三箇所に千鳥破風付き。
屋根は檜皮葺で、覆屋によって保護されているため、状態は良好である。
既に昭和25年に国の重要文化財に指定されていたが、昭和41年の解体修理の際、内部の壁板面に永徳3年(1383年)11月9日完成した旨の墨書が発見され、この本殿は、神杜建築としては全国的にも希少な、南北朝時代の建立であることが確認された。
平成20年には彩色の修復が施され、べんがら塗りの往古の美麗な姿が甦った。

社頭掲示板



添御縣坐神社 大月次新嘗

添は郡名に同じ、御縣は美阿加多と訓べし、○祭神詳ならず○鳥見庄三碓村に在す、今天王と称す、(大和志)
考証云、今添田天神、○旧事紀、(神代本紀)津速魂尊児武乳遣命、添縣主等祖、」姓氏録、(大和國神別)添縣主、出自津速魂命男武乳遣命也、とあれど其氏神の社と見えしも、神名帳の中にあらねば、是も相殿には祭れるならん、考証に、此六御縣に坐神を、すべて氏神とすれど、さては祝詞の文に差へるこゝちす、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下添御縣神從五位上、

神社覈録





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