添御県坐神社(歌姫町)
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   【延喜式神名帳】添御県坐神社 (大 月次/ 新嘗) 大和国 添下郡鎮座

   【現社名】添御県坐神社
   【住所】奈良県奈良市歌姫町999
       北緯34度42分15秒,東経135度47分45秒
   【祭神】速須佐之男命 (配祀)櫛稻田姫命 武乳速命
   【例祭】10月10日
   【社格】
   【由緒】天平2年(730)の大和国正税帳に記載有り
       貞観元年(859)5月 從五位下から從五位上『三代実録』

   【関係氏族】添県主 小野氏
   【鎮座地】もとはいまより少し南に東向きにあった

   【祭祀対象】添御県の国魂神
   【祭祀】江戸時代には、「牛頭天王社」「八王子社」
   【社殿】本殿春日造桧皮葺
       宝暦5年(1755)に修理
       拝殿・祝詞舎・社務所・神饌所・納家

   【境内社】見受けられない
   【神宮寺】歌姫街道を隔てた小字「薬師」「ミタ(彌陀カ)頭」付近にあつたのではなかろうか。


大和国の六つの御県の一つ、添御県に祀られた神。
亨保9年(1724)には八王子社と称していた。もとはいまより少し南に東向きにあったが、郡山藩主の参勤交替に社前を通のは恐れ多いとのことで現地へ遷。明治7年(1874)には垂神天皇・日葉酢姫命を祀っていた。叢林有り。平地の住宅地の中手入れがよい。石灯の多い神社である。
大和国の六つの御県の一つで、添御県に祀られた神で、恐らくは、その国魂神を添県主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の末裔)がまつていたものであろう。
「歌姫神社」とも呼ばれている。
境内に2つの歌碑がある。
佐保過ぎて奈良の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は 妹を目離(めか)れず相見(あひみ)しめとそ  万葉集 巻3−300  長屋王
このたびは、幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに  菅原道真


添御県坐神社

祭神:速須佐之男命、櫛稲田姫命、武乳速命
 祭礼日:1月1日・元旦祭、3月11日・春の大祭、8月21日・雨喜祭、10月10日・秋祭、11月28日・秋の大祭、各月1日・月次祭
 由緒:祭神・速須佐之男命は皇祖・天照大神の弟神、櫛稲田姫命は、須佐之男命によって八岐大蛇の難をのがれ、命の妃となった姫神。武乳速命は添の御縣の地の祖神です。  延喜式の祈年祭の祝詞によると、御縣の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されています。また祭神・櫛稲田姫の神名は「奇(く)し稲田」が原義でその神格は農の神であります。

社頭掲示板



由緒

当神社は、大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置します。そして、大和から歌姫越えて諸国へ旅をする際に、国境に鎮座する手向けの神として尊崇されていました。万葉集に左大臣・長屋王の詠んだ次の歌があります。
  佐保すぎて 寧楽の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ
この歌には、大和と山城の国境の神添御懸座神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。
当神社は、格のある式内社・御県社の一つとしてだけでなく、農の神、旅の神として崇敬されてきました。江戸時代には「午頭天王社」「八王子社」として、除災・治病の神としても信仰されてきました。

社頭掲示板



添御県坐神社

添は曽布とも表記される。
『新抄格勅符抄』に「添御県神二戸」とある、延喜式内の論社として次の二社がある。
@奈良市歌姫町御県山。旧村社。添御県神を祀る。例祭10月9日。
A奈良市三碓町。旧村社。武乳速命・速須佐之男命・櫛稲田媛命を祀る。本殿は室町期のもので、千鳥破風つき流造り重文である。『神祇志』に「添御県坐神社ハ今、鳥見荘三碓ニ在リ」、『大和志』に三碓村ニ在リ。今、天王ト称ス」とある。例祭10月13日。

神社辞典



添御縣坐神社

式内 鎮座地奈良市歌姫町999番地
祭神
速須佐之男命
櫛稲田姫命
武乳速命(たけちはやのみこと)
祭神,速須佐之男命は皇祖、天照大神の弟神、須佐之男命の別名です。櫛稲田姫命は須佐之男命によって八岐大蛇の難をのがれ、命の妃となった姫神。武乳速命は添の御県の地の祖神です。
当社は氏子の長老が1年交替で神主となり神社を奉斎します。任を果たした神主は十人衆と呼ぶ宮座に入り、神社の維持、および次の例祭を執行します。
元旦祭
春の大祭
雨喜祭雨よろこび)
秋祭 稚児の式
秋の大祭
月次祭
延喜式の祈念祭の祝詞によると、御県の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されています。また、祭神・櫛稲田姫の神名は「奇(く)し稲田」が原義で、その神格は農の神であります。
なお、当社は、大和平野中央を縦貫する下つ道の北端に位置し、古来、国境いに鎮座する手向けの神として尊崇されてきました。「万葉集」に左大臣・長屋王の詠んだ歌があります。
 佐保すぎて寧楽の手向に置く幣は妹を目離れず相見しめとそ  長屋王
昌泰元年(898)10月、宇多天皇の吉野行幸に従った菅原道真の歌に次の一首があります。
 このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに   菅原道真
右二首の歌は、大和・山城の国境いの神、この添御縣坐神社を拝し、旅の安全を祈念したと想定してはじめて作の真意に到達します。
農の神、旅の神として崇敬されてきた当社は、江戸時代から病気を治す神として信仰され、近時菅原道真ゆかりの神社として合格を祈願する人の姿も見るようになりました。
平成3年10月吉日

社頭掲示板



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