創祀年代は詳らかでない 峡谷には巨石重畳として谷をうずめ、殊に前伏磐と後立磐からなる巨石を天の石立神社の神体として崇敬している。 巨石信仰より祭祀されたことは疑問の余地がなく、往古より社殿はなく、巨石を神体とし、樹間に注連を張り、巨石の東方に方一間の拝殿を設けている。すこぶる原始的祭祀の形態を遺している。 谷間の神社で茶園より先は車は入れない。 神社の後方には柳生新陰流の始祖柳生宗厳が一刀のもとに切断したと云ふ高さ2mに及ぶ一刀石の巨石もある。 |
天石立神社 延喜神名帳に記載されている式内社である。小社としてその中に加わっている。御神体は巨石で前伏磐、前立磐、後立磐と三つに割れている。神代の昔、手力男命が天之岩戸を開けた時、力が余り虚空を飛来しこの地に落下したと伝えられる巨岩崇拝の伝統である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
天石立神社 明治7年に報告された當社由來記には左の如く記載する。 傳ニ曰、昔年天照皇大神宮開天ノ岩戸ヲ出現シ玉フ時、天ノ香久山ノ岩戸分レテ爲両ツト、其一ツ者飛行虚空ニ、其一ツ者留在和州ニ、號其地ヲ曰神戸岩卜霊験顯著也、神戸岩ノ辺リ在四箇ノ庄、所謂ル大柳生庄・坂原・邑馳庄・小柳生庄是也、神武以來霊地ニ而、藤原基経(宇多院御宇仁和年中)并領四箇ノ庄ヲ、其六世後孫大郎藤原頼通(後朱雀院御宇長暦年中)以四箇庄寄附春日社、以爲神料之地、時此岩鳴動多時而止ム、衆皆以爲神慮矣、時ニ長暦2年也、爾來朝廷毎吉祥必鳴動ス、後年定春日神職ノ領ト。 社頭掲示板 |
天の石立神社 ここは柳生家の修練の場といわれています。この谷には、巨岩が重塁しており、前伏磐、前立磐と後立磐からなる巨石を天の石立神社の御神体として祀っています。 延喜式神名帳にも記されている式内社で、手力男之命が開いたという天の岩戸の扉が空を飛んでここに落ちたという伝説がある自然信仰の貴重な神社です 社頭掲示板 |
式内天乃石立神社 柳生戸岩谷の天乃石立神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社である。延喜式は一千年前延長年間に撰せられたもので、その神名帳には、全国の官国弊社二一三二座を記載しているが、戸岩谷の天乃石立神社も小社としてその中に加わっている。 天乃石立神社の祭神は、天照大御神、豊盤門戸命、櫛盤門戸命、天盤戸別命となっているが、神体は扉の形をした巨岩(花崗岩)、前伏盤、前立盤、後立盤の三つに割れている。 前立盤は高さ6m幅7.3m厚1.2mあつて、全体が扉の形をしている。 伝説によると、神代の昔、高天原で手力雄命が天岩戸を引き開けたとき、力余ってその扉石が、虚空を飛来し、この地に落ちたのだという。 巨岩崇拝の好適例で,古来土地の人達の信仰は深く強いものがあった。 正保2年(1645)但馬守宗矩は、参道を修理して並木を植えているし、宝永2年(1705)柳生宗弘(のち藩主俊方)は、、能舞台を建て石燈龍を、寄進し、寛保2年(1742)藩主俊平も、石燈寵を寄進している。 社頭掲示板 |
一刀岩 この大きな岩は花崗岩ですが、中央でみごとに割れています。 一説によると柳生新陰流の始祖柳生宗厳(石舟斎)が天狗を相手に剣の修行をしていて、天狗と思って切ったのがこの岩だったと伝えられている。 社頭掲示板 |
天乃石立神社 天乃石立は阿女能伊波多知と訓べし○祭神明か也○小柳生村岩戸谷に在す、(大和志、同名所図会)、 神社覈録 |