五百立神社
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   【延喜式神名帳】五百立神社 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】五百立神社
   【住所】奈良県奈良市雑司町 406
       北緯34度41分16秒,東経135度50分18秒
   【祭神】天冨命
       建五百建命『神名帳考証』『神社覈録』

   【例祭】7月5日
   【社格】旧村社
   【由緒】天喜4年(1056)5月の東大寺起請案に記載有り
       嘉承元年(1106)の『東大寺要録』巻四にもその社名が記載あり
       治承4年(1180)12月 焼失か
       寛喜2年(1230)10月に正倉院宝物の盗難事件で犯人は鏡八面を大佛殿前五百余所社に隠匿『東大寺続要録』
       弘安9年(1286)頃に拝殿一宇を修造している
       永禄10年(1567)10月 焼失か
       宝永6年(1709)正月大仏殿再興と並行して、大工棟梁堀内筑前守により再興
       明治初年の社寺分離政策に依り、村社として手向山八幡宮附属社となる
       大正4年手向山八幡宮末社から村社に変更
       昭和9年(1934)に鉄道供養塔造立のとき塔の脇の現地へ遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初より東大寺境内に鎮座していた
       もとは東大寺眞言院の北に鎮座していた

   【祭祀対象】東大寺造営の五百人の木匠
   【祭祀】江戸時代は「五百余所神社」と称す
   【社殿】本殿銅板葺春日造 
       

   【境内社】なし

創立年代は詳らかでない
『大和志』は東大寺真言院の北とあり、その位置は、今、五百立山上の供養塔が立っている地だったといわれ、昭和5年その地に鉄道殉職者供養のための石造十三重塔が建立されたため、丘の東麓に移築されたという。
五百立の社号は添上郡(奈良市・山添)に伝えるものがなく、ただ東大寺境内に手向山八幡社の末社として、古来五百余所社と称する小社があった。
昭和9年(1934)に鉄道供養塔造立のとき供養塔脇の現地へ遷。
東大寺造営の五百人の木匠を祀ると言われ、「番匠(ばんじょう)社」との称する。
供養塔脇の小社、参道も定かではない。


五百立神社

当社は五百余所社(ごひゃくよしょしゃ)とか五百立神社と称せらる。
 五百余所社の社名は天喜4年(1056)5月の東大寺文書に二十五所社・気比気多神社などと共にその名が見える。
 中世の絵巻物などには、大仏殿創建に従事した五百人の工匠が、工事が完成すると五百羅漢になって天空高く飛び立ち、姿を消したとの説話がみえる。本来の祭神は定かでない。
 大仏殿江戸期再建の祭にも、五百余所社は大工・小工の崇敬を集めたようで、番匠社とも呼ばれ、宝永6年(1709)3月の大仏殿落慶法要を前にした正月6日に、大工頭領堀内筑前守(若狭)が新建寄進している

社頭掲示板



五百立神社

東大寺南大門から130メートル西方の山腹にある。 式内社にあてられる当社について、明治7年8月の報告書に「東大寺ノ内真言院後山原ニ鎮座、祭神天富命」とあるが、昭和7年ごろ、東大寺で鉄道殉職者供養の石造十三重塔建立のため、神殿を五百立山の北方に移建されたという。

奈良県史



五百立神社

五百立は伊保多知と訓べし○祭神詳ならず○南都東大寺眞言院北に在す、今五百余社と称す、(大和志)
旧事紀(国造本紀)科野國造、神八井耳命孫建五百建命、

神社覈録



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