「崇道天皇陵の西の丘には延喜式内社に比定される嶋田神社があり、崇道天皇社と並立していたことも知られている」『天皇陵総覧』 明治18年(1885)八嶋陵内にあった島田神社・崇道天神社を遷して合祀移転した。 陵前の「前地」に八石と呼ばれる大きな石が寄せ集めてあり古い磐座であろう。「八石」は現在7個あり、四国より松と石が来たとの伝がある。 成務天皇の御代、神八井耳命の裔、仲臣子上、尾張国島田の悪神を平げた功により、島田臣を賜わつたという。 本殿は擬宝珠の銘から慶長18年(1613)正遷宮時の春日旧殿ではなかろうか。 当初の所在地は八島陵西の丘にあったとする。室町期には八島陵の北、字クラノカヰトにあったとの記録が残る。現在八島陵北西に字「蔵六垣内」が残る。江戸期には崇道天皇社と共に八島陵内に鎮座していたとされる。1885年(明治18年)頃、当社と崇道天皇社が鎮座していたとされる現八島陵の地を、早良親王の御陵として整備することが決まり、1886年(明治19年)、崇道天皇社の御神体と社殿を下付され、現在の所在地に二神合祀の形で移築された。 |
嶋田神社 奈良県指定文化財 嶋田神社一棟 昭和53年3月1日指定 この本殿は春日移しの社である。春日大社古記録によると、享保12年(1727年)春日大社が第45回式年遷宮による造営のとき旧本殿のうち第ニ殿を八嶋村に譲渡したとある。しかし擬宝珠の銘には更に古く記している。移築当時に近い形状を残していて価値が高い。 昭和57年3月 奈良市教育委員会 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
島田神社 奈良市指定文化財 嶋田神社本殿 宝永6年 昭和57年3月1日指定 春日大社本社本殿は、幕末まで、ほぼ二十年毎に建て替えられてきました。その際払い下げられた旧本殿が各地に残っています。 当社本殿もそのひとつで、当初形式をよく残しており、貴重です。 建立・移築の経過は次のとおりです。 宝永6(1709)年 春日大社本社本殿第三殿として建立(部材から「三之御殿」の墨書がみつかっています。) 享保12(1727)年頃 崇道(すどう)天皇社本殿として現八嶋陵の地に移築 明治19(1886)年 八嶋陵整備に伴い、崇道天皇社と嶋田神社を合祀、嶋田神社本殿として現在地に移築 奈良市教育委員会 社頭掲示板 |
島田神社 近鉄奈良駅から山村行きバスで八島町下車約600mのところに鎮座。 式内の当社は、神武天皇の皇子神八井耳命と、光仁天皇の皇子早良親王の追尊名である崇道天皇を祀る。『新撰性氏録』に成務天皇の代、命の後裔の仲臣子上が尾張国島田の悪紳を平らげた功により、島田臣を賜ったとあるので、神社名となったのではないか。当社300m西に崇道天皇八島陵があり、江戸時代はこの社も陵上に祀られ、この地方の氏神としていたが、明治20年ごろ陵を整備、当社は現在地に遷座したという。石灯籠方柱に「奉寄進八嶋天王御宝前 寛永17年庚辰11月吉日」などの刻銘がある。 早良親王は天応元年(781)皇太子になられたが、延暦4年(785)の藤原種継暗殺にくみしたとして廃され、乙訓寺に禁固されたが後、十余日飲食を断ち淡路島に配流される途中逝去された。屍は淡路に送って葬られたが、その霊が祟をなしたというので、同16年僧二人を淡路に遣わして親王の霊に陳謝、同19年崇道天皇を追号、その御墓も山稜として整備された。『帝王編年記』によると、延暦19年7月「大和国八嶋寺」に遺骨を奉納したとあり、『類聚国史』には同24年4月に改葬司を任じたとある。 奈良県史 |
島田神社 島田は志麻多と訓べし○祭神島田臣祖歟○八島村に在す、崇道天皇即曰御霊、(大和志)○姓氏録、(右京皇別下)島田臣、多朝臣同祖、神八井耳命之後也、五世孫武恵賀前命孫仲臣子上、稚足彦天皇(諡成務)御代、尾張国島田上下二縣、有悪神、遣子上平服之、復命之日、賜号島田臣也、 諸社根元記云、春日末杜島田明神、 神社覈録 |