天武天皇6年(678年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682年)に氷上娘を「赤穂」の地に葬ったと日本書紀に書かれており、その赤穂としてこの地が有力とされている。 鏡神社の別社。当社・島田神社・御前原石立命神社・天乃石吹神社の4社は早くに合祀して春日神社の紀伊神社となったとの説もある。細い道路南にあるごく小社。境内掲示の古地図によるとヒメ墓と称すものがある。 紀伊神社は、春日大社本殿の南に続く奥の院道(通称・福神12社廻り)の最南端にある摂社 祭神の天満と弁才天は高畑各所にあつたこれら小祠を合祀したものという。 赤穗社の本殿の近くに「ヒメ墓」という地名があるという伝承があり、当社には古来、特に高貴な女性の信仰があつたことは注目してよい。 |
式内社 赤穂神社の由来 古来、高畑町の春日社神官邸町の西端の地に鎮座して 久しく里人の尊崇を受け給ふ。 平安時代「延喜式」所載の古社にしてかの二月堂お水取り に読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、連綿今日に 至るまで読誦せらるゝ古例なり。 上古、天武天皇紀6年に十市皇女を同10年に氷上ノ夫人を 「赤穂ニ葬ル」とあるは蓋しこの地辺ならむ。もと社 広大にして数百余坪桜樹多く幕末頃まで桜田の 地名ありき。近世の記録には天児屋根命を祀るとせるも 加ふるに、「高貴の姫君を葬る」と口碑伝承あるはいと 久しく女人守護の霊験久しかりし証なり。 明治御一新の後、この里荒廃し二百戸近き社家・祢宜の 大半は離散して築地塀のみ虚しく残り、秋艸道人、堀辰雄 らの文人哀惜の詩文あり。されど、より深く嘆きまさりし里人有志、滅びゆく天満宮社・弁才天を合祀して赤穂社の 左に配し、今に二社併存す。昭和5年以来、この地の 産土神鏡神社の別社となり、地元有志再興の至誠を注ぎ つ、今日に至る。神徳の長久を仰ぎ先人の篤信を継承して復興の機運を待望する所以なり。 昭和52年9月18日 例祭の佳日 赤穂神社 地元奉賛有志 鏡神社・赤穂神社 宮司 梅木春和 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
赤穂神社 近鉄奈良駅より市内循環バス破石町下車へ約300m。 御蓋山の西麓、南の能登川と北の率川上流との間の台地の一角に鎮座する延喜式内社。本殿内右に天児屋根命、左に天満宮、相殿に弁財天を祀る。『大和志』には南都高畠神保町にありと記されているが、神保社とも呼ばれた。『日本書紀』天武天皇7年(679)皇女で弘文天皇の妃十市皇女を、同11年1月27日藤原鎌足の女で天武天皇夫人を何れも赤穂に葬るとあるが、本殿近く「ヒメ墓」との地名がある。延喜の制では小社に列し、古来高貴な女性の信仰が篤かったという。 奈良県史 |
赤穗神社 赤穂は阿加保と訓べし○祭神明ならず○南都高畠神坊町に在す、(大和志) 諸社根元記云、春日末社赤穂明神、」考証云、祭神倉稻魂命、」比保古云、赤火姫大神、〇日本紀、天武天皇7年4月丁亥朔庚子、葬十市皇女於赤穂、 類社 近江國伊香郡阿加穗神社、 神社覈録 |