売太神社
めたじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】売太神社 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】売太神社
   【住所】奈良県大和郡山市稗田町319
       北緯34度38分21秒,東経135度47分46秒
   【祭神】稗田阿礼 (配祀)猿田彦神 天鈿女命
       比売陀君祖『神社覈録』
       中世は祭神不詳

   【例祭】10月19日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】明治7年「十三社明神」と称
       昭和17年に現在の「賣太神社」に改称

   【関係氏族】猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)
   【鎮座地】環濠集落として有名な稗田の地の中心にある

   【祭祀対象】祖神
   【祭祀】「三社明神」→「十三社明神」(明治7)→「売田神社」(明治24)→
       「売大神社」(昭和17=田を売るを嫌った)

   【公式HP】 売太神社
   【社殿】本殿春日造
       旧本殿は現在の位置より25mほど東北にあり、その石壇だけ残存する
       拝殿・社務所

   【境内社】春日神社・嚴島神社社・八柱神社

この地は太古より天宇受売命を太祖とする猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。この稗田は環濠集落として有名であり、古の大族であった稗田の猿女の君の邸宅の跡と言われる。売太神社はその祖先の廟祠とおもわれる。
社名も「三社明神」→「十三社明神」(明治7)→「売田神社」(明治24)→「売大神社」(昭和17=田を売るを嫌ったため)と変遷しており、中世は祭神不詳であった。
かつてこの神社は平城京の羅城門付近に存在しており、道祖神としての役割もあったとされる。
阿礼祭(8月16日)は、昭和5年8月16日に、奈良県童話連盟が発起し、巌谷小波・久留島武彦・岸邊福雄をはじめ全国の董話家が参集し、お話の神としておまつりをしたのに始まる。



参拝のしおり

賣太神社御由緒 主斉神稗田阿礼命
当社は奈良県大和郡山市稗田(ひえだ)町319番地に鎮座しており、稗田阿礼命(ひえだのあれえのみこと)天宇受賣命(あめのうずめのみこと)猿田彦神(さるたひこのかみ)をお祀りしている。稗田の地は、太古より天宇受売命を太祖とする猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。
奈良時代に至り、阿礼さまがお生まれになって天武天皇に舎人(とねり)としてお仕え申し上げていた。阿礼さまは、人となり聡明で博覧強記に富んだ卓抜な才能の持主であったので、天皇は数多くある学者や名門出身の役人の中から特に廿八才の若い阿礼さまをお選びになり、天皇がご精選された歴代の神様のご事績、皇位継承や天皇のご事績、神代以来の各氏族の歴史等、数多くの事柄を勅語(みことのり)にて誦習(よみなら)わしお授けになった。
この誦習った事柄を三十有余年後の元明天皇が、太安万侶さまに、「稗田の阿礼の誦習った事柄を記録せよ。」とお命じになった。このようにして和銅五年(七一二年)正月二十八日に出来上がって天皇に撰上申し上げた書物が古事記である。
古事記は上・中・下の三巻からなり、我が国最古の国史・文学の書物で、多くの神話・伝説が豊富にとり入れられている神典であり、又古代人の生活、習慣、思想が多方面にわたってうつし出されているのであるから、私達の祖先の考え方や生き方を偲ぶのにこよない手がかりとなる貴重な書物である。おもうに阿礼さまは、日本道徳の真髄を極め伝えられた文道の太祖であつて宏大無辺のご霊徳を仰ぎ迎えんとして全国より参詣される方が多く、ご神徳まことにあらたかである。
副斉神天宇受売命、猿女君の遠租に当たる女神で、稗田阿礼命はその末裔(まつえい)である。天の岩屋の神事に、天宇受売命は、たけだけしい神霊が寄りかかり霊魂を誘発する鎮魂舞踊を演じ、天照大神を岩屋からお出し申し上げた女神である。又、天と地の分岐点において猿田彦神と出会い、神懸(かみがかり)により問答された神事などあって、後に猿田彦神とご結婚された。これらのご功績により、女性ではあるが、天皇から男性同様猿女君の姓を賜わり、その後男性も共に猿女君と称し、宮中に仕えられた。この宗族(そうぞく)が稗田の地に定住され、祖神を祀る賣太神社は、平安初期に官弊社に列せられたのである。
天宇受売命は、後世「おたふく」「おかめ」と言われている女の福徳をそなえられた神様であるから福の神、鎮魂の神、笑いの神で、芸能の始祖神としてもご霊験まことにあらたかである。副斉神、猿田彦神、天宇受売命の彦神である。天孫、ににぎの命の降臨にあたって、天と地の分岐点に立って、天孫をお導きした神である。
江戸時代には、猿田彦信仰厚く御神徳はすべての物事のはじめ即ち新築、移転、旅立ち、結婚等に災難や悪魔を祓(はら)ってよい方へ導き給うと、昔から諸事をなす際には、そのご霊徳を仰ぎ迎えんとして全国より参詣に来られる方が多い。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




賣太神社御由緒

社格 延喜式官幣社 旧県社
御祭神 主斎神 稗田阿礼命 ひえだのあれのみこと
副斎神 猿田彦命 さるたひこのみこと
副斎神 天鈿女命 あめのうずめのみこと
稗田阿礼命
この稗田の地は太古の昔より朝廷に奉仕した猿女君稗田氏一族の居住地であって天武天皇の舎人稗田阿礼はこの一族として出仕したのである。
天皇は阿礼が記憶力理解力共に抜群で学芸諸術の才にも秀でていたのをお褒めになって御自ら御精撰になった歴代天皇の御事績と建国以来の歴史・神話・伝説・歌謠を直接お授けになった。
この誦習った事柄を三十有余年後の元明天皇が太朝臣安萬侶に記録させられた書物が古事記である。之はわが国最古の文学書で古代人の生活・習慣・思想が書かれ祖先の考え方や生き方を偲ぶのに貴重な書物である。今日阿礼さまの宏大無辺のご霊徳を偲び学問の神・知恵の神として信仰が厚い。
猿田彦命
天鈿女命の彦神であって土地・方位の神として全ての物事の初めすなわち新築・移転・旅立ち・結婚等に災難や悪魔を祓ってよい方に導き給うご霊験あらたかな神である。
天鈿女命
猿女君稗田氏の太祖で「天岩戸隠れの神事」にたらいを伏せて舞を舞われた女神でオタフク又はオカメの愛稱あり福の神、芸能の始祖神として親しみ信仰されている。

社頭掲示板



稗田環濠及び集落

大和郡山市指定史跡 稗田環濠及び集落
稗田環濠は、環濠集落の代表的なものとして貴重な存在であり、且つ原型に最も近い姿で現存している点、全国的にもその例を見ないものである。築造された年代等については、判然としないが、大和平野に散在する200近い環濠が鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されていることから、同環濠もこの時代に外的からの防御や、農業用水の確保を目的に築造されたものと考えられている。
周囲2414.5m 幅最長ヶ所14m 最短ヶ所4m
昭和51年3月 大和郡山市教育委員会

社頭掲示板



売太神社

稗田阿礼命
この稗田の地は太古の昔より朝廷に奉仕した猿女君稗田氏一族の居住地であって天武天皇の舎人・稗田阿礼はこの一族として出仕したのである。
天皇は阿礼が記憶力理解力共に抜群で学芸諸術の才にも秀でていたのをお褒めになって御自ら御精撰になった歴代天皇の御事績と建国以来の歴史・神話・伝説・歌謠を直接お授けになった。
この誦習った事柄を三十有余年後の元明天皇が太朝臣安萬侶に記録させられた書物が古事記である。之はわが国最古の文学書で古代人の生活・習慣・思想が書かれ祖先の考え方や生き方を偲ぶのに貴重な書物である。今日阿礼さまの宏大無辺のご霊徳を偲び学問の神・知恵の神として信仰が厚い。
猿田彦の神
天鈿女命の彦神であって土地・方位の神として全ての物事の初めすなわち新築・移転・旅立ち・結婚等に災難や悪魔を祓ってよい方に導き給うご霊験あらたかな神である。
天鈿女命
猿女君稗田氏の太祖で「天岩戸隠れの神事」にたらいを伏せて舞を舞われた女神でオタフク又はオカメの愛稱あり福の神、芸能の始祖神として親しみ信仰されている。

社頭掲示板



売太神社

売太は比女多と読り〇祭神比売陀君祖歟○在所詳ならず○古事記、(開化段)菟上王者、比売陀君之祖、」同、(履中段、)比売陀君等、賜姓謂比売陀之君也、
考証云、今水屋社、素盞嗚尊也、○大和志云、在稗田村、今称三社明神、

神社覈録



大和国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録