宅春日神社
やけかすがじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】春日神社 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】宅春日神社
   【住所】奈良県奈良市白毫寺町116
       北緯34度40分18秒,東経135度50分49秒
   【祭神】天児屋根命、比売神
   【例祭】10月体育の日
   【社格】
   【由緒】神護景雲2年(768)春日大社が創祀された直後に最初に末社として創建
       明和4年(1767)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・神饌所

   【境内社】

神護景雲2年(768)に春日大社が創祀された直後に最初に末社として創建されたと伝。
奈良時代、枚岡神社から天児屋根命が春日大社へ勧進される途中に一時休憩された場所という伝承もある。
、「南都名所集」に「此やしろのまへなる田を杉町といふ、大明神杉の葉を植えまき給えへば、すなはち米となれり。さるゆへに当時も御田植に、此所の杉の跡より生たる松の葉を取て植える作法あり。杉の木なき故に松を用い侍るとなり。此杉町の稲籾を明年出来るまでをくなり。榊枯変ずる時、臨時の御神楽に此米を用いるとかや。やしろは此百毫寺のほとりなり」と記される。


宅春日神社

由緒:遠く奈良朝の昔、河内の枚岡から春日の神 天児屋根命が御蓋山にお遷りになるとき、高円山下のこの地でしばらくお休みになったとの信仰伝承を、宅神社春日社では伝え継いでおります。
 第一回ご造営明和4年(1767)以来約240年間 由緒深いこの地に里人は神社を建て、天児屋根命、比賣神を祀り産土神と仰ぎました。
 山青く水清く、平和な田園に囲まれて里人は久しくこの氏神さまを仰ぎ 春日社禰宜が代々祭典に奉仕し、氏子達が20年目ごとに造営を重ねて昔の伝統を守り継いでまいりました。
 近くは昭和61年のご造営には、先人達の篤い信仰により春日若宮本殿の半分の大きさに本殿を新造し、末社山の神社を独立して祀り、神饌所、玉垣などを整備するなど、氏子の総力を挙げて旧観を一新し、祭礼もようやく盛儀となってまいりました。
ところが永年の歳月と風雪のため社務所の朽損は特に激しく床や屋根建具まで修理不可能箇所が多く、また、境内の整備全般が急がれる状況になっております。朝夕この古里の我々をお守り下さる氏神様に対し嘉例に依って伝統をまもりつつ改新を重ね、荘厳を更に添えていくことは、私共氏子一同の後世子々孫々に伝えてゆくべき責務と存じております。そして今回第13回のご造営を完成し現在の姿に成ったのであります。
平成18年10月吉日

社頭掲示板



宅春日神社

称徳天皇の神護景雲2年(768)春日大社が造営された直後の創建、天児屋根命の御神霊を河内の枚岡から迎えて、御蓋山に鎮まるまで当地に仮神殿を造って祀っていたと伝える。
『大和名所図絵』(寛政年間刊)によれば、「宅春日ー『大和志』に曰く、大宅郷既に廃し、白婚寺に存す。故に今、宅春日といふ。社伝に曰く、一社は春日明神、一社は法明房恩覚をいはひし宮といふ。『春夜神記』に曰く、大明神、枚岡より此所へ影向ありて、其後、本宮嶽に移らせ給ひ圧るなり。(中略)社記に曰く、此の社のまへなる田を杉町といふ。大明神、杉の葉をまき給へば則ち稲となれり。当時も御田植に、杉の代りに此処より生えたる松の葉を以て植うる例あり」とある。また『春日権現験記』巻十二には、宅春日神社に神人として祀られている法明房恩覚上人の一代記が詳述されており、これらによって由緒が著名であったことがよく知られる。
宅春日の「宅」については、1.難波皇子(敏達天皇の御子)が建てた大宅寺の寺名、2.大宅氏(大宅郷であった頃、のちに創建された神社のあたりに大宅〔役所のこと〕を置いて領国支配をしていた豪族の大宅朝臣可是麻呂氏)の氏名、3.大宅という役所名、4.大宅郷の地名、と諸説がある。いずれにしても詳細不明のまま今日に至っている。『奈良県町村史集』(明治24年刊)には、宅春日神社の所在地に当たる白奄寺村に「大宅」と「杉町田」が名所として保存されてきた、と記載されている。
神賑行事では天保期に太鼓台(ふとん御輿)ができて秋の大祭は大賑いを呈したが、乱暴の事が引続き、明治30年頃解体。のちに昭和33年に子供御輿が奉納されて以来、猿田彦、鎧武者、稚児、白拍子、供奉侍、花傘等の100メートルに及ぶ行列が練り歩く盛況となっている。

全国春日連合会



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