神波多神社
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   【延喜式神名帳】神波多神社 鍬 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】神波多神社
   【住所】奈良県山辺郡山添村中峯山310-1
       北緯34度41分24秒,東経136度3分51秒
   【祭神】神須佐之男命 (合祀)櫛稻田姫神 春日大神
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】神護景雲4年(770)6月23日疫神を畿内外の堺十箇所で祭った
       天正9年(1581)織田信長の伊賀攻めの際に兵火に遭った
       大正15年(1926)9月県社に昇格

   【関係氏族】
   【鎮座地】場所はほぼ変わっていない

   【祭祀対象】疫病を防ぐ神
   【祭祀】天王信仰が深く入っている
   【社殿】本殿 神明造
       拝殿・社務所・神輿殿・接待所

   【境内社】八柱神社・六柱神社・熊野社・津島社・山神・稻荷社
   【別当】境内には、長谷寺の末寺、真言宗善明院がある

延喜式臨時祭に「畿内堺十処疫神」として、大和と伊賀の堺に祀る、とあるのを当社に比定する。
祭神は榛原町の伊豆神社より流れてきたと伝。尾根の頂上の神社。道路から広い石段段が一直線にあがる。寺院と同一境内にある。
伊勢本街道からは離れているが、大和から伊賀への要路であつて、伊勢へ向う道程の一であり、大和国の伊賀の国との堺であつた。そのため疫神を塞ぐ神が祀られた。後に疫神から牛頭天王を祀るようになった。


神波多神社案内

神波多神社(牛頭天王)は、「延喜式」神名帳(927)にその名が見られる古社で、「延喜式」臨時祭に畿内堺10ケ所に祀った疫神のうち「大和与伊賀堺」に祀られた疫神であると考えられている。
また、本殿西方から出土した平安期の古鏡や、正和元年(1312)の銘を刻む石灯篭(村指定丈化財〕があるなどから、かなり古くから信仰を集めていたようである。
天正9年(1581)織田信長の伊賀攻めの際に兵火に遭ったと伝えられ、縁記等の資料を欠き沿革の詳細は明らかでない。
当社の祭神は、素盞鳴命のほか春日大神・櫛稲田姫命を祀る。
古来から「波多の天王」と呼ばれ、大和・伊賀・山城など広くにわたり崇敬者が多い。
江戸時代前期(17世紀中項)の建立と推定される本殿は、奈良県指定文化財(建造物)である。建立以未一度も根本的な解体修理がなかったことから各部が緩み放置できない状態になっていたので、保存のため平成6年から同7年(1995)にかけ初めての解体修理が行われ、創建当時の姿に戻った。
主なお祭は祈年祭(2月25日)祇園祭(旧6月13日)
例祭(10月15日)新嘗祭(11月25日)である。
神波多神社
山添村教育委員会

社頭掲示板




【文化財】

神波多神社本殿 奈良県指定文化財(建造物) 江戸時代前期(17世紀中項)の建立
石燈籠 山添村指定文化財 正和元年(1312)


山添村指定文化財

(昭和41年9月20日指定)
石燈籠 神波多神社
正和元年(1312)
六角型の総高230p。「正和元年壬子4月11日大願主良禅」の銘がある。
比較的大きい火袋を有し、中台も重厚で獅子を半肉に刻し、反花にも力量感がある。基礎の下端にも中台と同じように格狭間を配している。各部とも鎌倉時代の特長をよく表している。
この燈籠には、天正9年(1581)織田信長の伊賀攻めのときの戦火をこうむった跡をとどめている。
神波多神社は延喜式の古社で、俗に「波多の天王さん」と称して知られている。
山添村

社頭掲示板



奈良県指定文化財

(平成2年3月9日指定)
神波多神社 本殿 一棟
附棟札九枚
(中峰山区)
中峰山の西方の高台上に鎮座する神彼多神社は、
古くより除疫神の牛頭天王を祀り「波多の天王」として信仰を集めている。
当社の秋季例祭「天王祭り」はみこしのお渡り、獅子神楽などが行われ、多くの人々でにぎわう。
本殿は、五間社流造、檜皮葺(銅板覆い)、礎石建の社殿で、正面の屋根中央に手鳥破風が置かれ、正面に一間の向唐破風の向拝が付く。当社には、数多くの棟札が所蔵されているが、本殿の造立を示すものは存在しない。ただ、元禄4(1691)の上葺棟札があり、建立はこれより遡るものと考えられ、妻飾の虹梁、庇の虹梁形頭貫の絵様などからすると、江戸時代(17世紀中頃)の建立と推定される。
この本殿は、小屋梁の架からない内外陣境の柱を半円柱とし、梁の架構に制約されずに背面の柱を立てるなど、随所に独特の技法を用いた遣構である。また、干鳥破風・唐破風によって外観に変化を富ませた手法も珍しく、県下における近世社殿建築の発展を示す重要な遺構と認められる。
山添村

社頭掲示板



郷社 神波多神社

祭神 素戔嗚命
本社創立年代詳ならず、然れども延喜式内の古社にして、醍醐天皇延喜の制祈年官幣に鍬一口を加へ奉る(延喜式)近隣十三ケ村の氏神なり(大和志)神社覈録に「神波多神社、神波多は加武八太と訓べし、祭神不詳、今山邊郡に属すとあり、蓋し添上郡小二十八座の一なる、社地波多野は最も旧邑にして、神武天皇紀に「己未年2月是時屑富縣波多丘岬有新城戸畔者云々」と見ゆ、明治の初年郷社に列す、毎年9月29日祭を行ふ(奈良県神社取調書)社殿は本殿、拝殿、握舎等の建物あり、境内539坪(民有地第二種中峯山にあり、月瀬の東南に位し、東は名張川を以て伊賀國と界し、山中幽僻の地たり。

明治神社誌料



神波多神社

かんはたじんじや 奈良県山辺郡山添村中峯山。俗に畑天王とも称す。『山都郡誌』の著者は『延喜式(臨時祭)』に「畿内堺十処疫神祭」のうち大和と伊賀の堺とあるところの社である、という。別に「神武紀』己末「層富の県の波多の丘岬に新城戸畔という者あり」とある波多も関係あるかに思われる。『延喜式』に「神波多神社鍬」とみえる。口承では、織田信長の大和乱入の際に焼失したともいう。近隣一三力村の氏神。10月15日渡御祭があり、天王さんの祭りと俗称にいう。宵宮の14日、御輿を出して装飾し、古儀の田楽を行う。伊勢神楽・皿まわしなど。15日、本殿から牛の宮への神輿渡御あり、行列も華麗である。渡御の者、沿道の人々も「まじやらく、まじゃらく」と唱えごとをする。牛の宮には手名槌命・足名槌命の小祠を祀り、ここで獅子舞が大天狗を相手に舞い狂うのが面白く、神社に戻ってからの獅子舞の諸曲が奏され、後、串肴による直会がある。

神社辞典



神波多神社 鍬

神波多は加武八太と訓べし○祭神詳ならず○仲峯山村に在す、今山邊郡に属す、(大和志)〇日本紀、神武天皇己未年2月、是時層富縣波多丘岬有薪城戸畔者云々、

神社覈録



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