楢神社
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   【延喜式神名帳】奈良豆比古神社 鍬靫 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】楢神社
   【住所】奈良県天理市楢町443
       北緯34度37分23秒,東経135度49分47秒
   【祭神】五十狹芹彦命
   【例祭】4月13日 春祭 10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】神護景雲元年(787)9月13日に称徳帝の奏聞で宮山(上の宮)に創建
       文久2年(1861)造営

   【関係氏族】大楢君
   【鎮座地】神社は元禄年間には約1km東の宮山(東大寺山)に鎮座していた。

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】鬼子母神/稲荷神社

神社は元禄年間には約1km東の宮山(東大寺山)に鎮座していた。氏子地域と離れているので、現社地に遷座した。 『延喜式神名帳』記載の添上郡の奈良豆比古神社の論社とする説もある。
『式内社調査報告』には全く記載なし。



大和楢神社栞

当社の由緒については古板木によると、「伝聞大和国添上郡楢郷楢大明神は往昔加賀国石川郡白山の嶺に現れ給ひて、祭神御神諱を石川比当スと号し奉るなり。御本地は訶黎帝母に在し此御神慈照方便深くして抜苦与楽の御神なり。御神誓空しからずして和光同塵の眼を開きたまひ小児を愛し給ひ万民撫育し給ふ事世の人の知る処なり。
抑当社御鎮座の濫觴は神護景雲元年9月13日白山の嶺より天真阪樹に乗給ひて当国石川乃河上楢郷に着給ひて此神木に影向あらせ給ひて光を放ち給ひ庶人奇異の思ひをなして人皇48代称徳帝の御宇奏聞を遂ぐ其後神託によりて此所へ社殿造営有しといへども練苦風雨に破し将又兵火乱放の為に亡し其後時移りて時代の大守君より社殿再建有し事も星霜800余年を経れば雲を凌ぐ社殿門扉も其形残るといへども旧殿乃有し所今礎さえも定かならずといへども明神の擁護は日々夜々に新しく影向の神木は兵火の厄に焼亡すといへども樹根より若芽を生して枝葉今に繁茂して古代かわらず今社内にあり斯霊地なるがゆへに歌に吟じ詩に賦して世に楽しむ事全く当社の神徳いちじるしければなり。故に此社へ一度歩を運ぶ輩は諸願成就皆合満足して諸人は愛敬を得て武門は家運を弥増し農業工匠商家は各其業職を安穏にして福徳自在長寿になさしめんとの御神賜也。実に参詣の輩さへかくの如し況や仮にも楢号を受け氏子となりて祈願の輩は諸願多在といへども攘賜招福長寿延命の霊神何そ其人を護り給はざらんや嗚呼信ずべし尊むべきは御神徳なり、将に願くは有信乃輩共に信施を催し給へとしかいふ。
これによると祭神は石川比当スにして、加賀の白山権現で本地は訶梨帝母(かりていぼ)で石川という地名が楢の西にあり今大和郡山市に属していてその川上が楢で、もとの鎮座地は今の場所でなく、上の宮と称する神明社の地と伝えられる。古の山の辺の道に沿い元禄年間の櫟本村絵図にも、ここを楢村宮と記されている。神明神社は天照皇大神を祭としているが恐らく兵火で焼亡した以後に今の地に移し、その跡を神明神社として崇敬したと考えられる。当社は下の宮と称していて、当社の祭典当日に当屋の主人および大字の係員、親戚らが渡御の行列で、本宮から奥宮(上の宮ともいう、神明神社のこと)へ旅されるのである。
また別な板木を読むと、恭敬給当社楢大明神は祭神石川比当スにして本地は円満具足天の陰神訶黎帝母天に在野の神霊験著明く諸願必ず協給ふ(中略)翌14日(3月)金剛寿命経(千巻)読誦奉り寿命長延ならしめんと欲す(下略)慶応2丙寅年仲春社預執事。社人木村金吾とある。維新以後になつて五十狭芹彦命神社(祭神五十狭芹彦命)と改めた。何によるか事情はよくわからないが、日本書紀の崇神天皇の条にある「武埴安彦その妻吾田媛と共に謀反逆す。五十狭芹彦命を遣して吾田媛の師を撃たしめたまふ」とあるによつて五十狭芹彦命を楢と那羅山の名から氏神としたものか、明治・大正・昭和の初までこれで来たが昭和31年6月19日に至つて社名をもと通り楢神社と改めた。そして7月9日に登記をしたが祭神名は五十狭芹彦命となつている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



楢神社

当社は神護景雲元年(767)9月称徳帝の奏聞を遂げ神託により宮山に創建された。東大寺二月堂修二会に読誦する東大寺上院神名帳に和邇・楢・巻向とみえて和爾坐赤坂彦神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神名帳の添上郡にみえる奈良豆比古神社に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母紳を合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神『楢の宮さん』として畏敬され慕われてきた。昭和31年に現在の楢神社に改称した。
そもそも、楢の地名は、東方3Kmの和邇族の拠点と認められる地域にある西山古墳群の一つから『佐井寺僧道楽師 族性 大楢君 素止奈之孫 和銅7年(714)2月26日命過』と記載された墓誌が発見された。そこに見られる『大楢君』と称する属性名に由来すると考えられる。また、大楢君素止奈は650年頃の在世と推定でき、飛鳥時代中期斉明天皇時代の人物である。
 従って楢の地に、英傑智謀の誉れの高い楢族の遠祖ナラツヒコ命を祭神としたナラツヒコ命神社を創設しても不思議ではないし、神仏混淆の時代であり、しかも、佐井寺在籍の僧侶を擁する氏族とすれば鬼子母神をナラツヒコ命と合祀しても不思議でない。他方、ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命を同一紳とする説話は、日本書紀の一書に曰くとして取り上げられていて当社の伝聞にも符合する。それ故に、明治の廃仏毀釈令のおり、祭神がナラツヒコ命から五十狭芹彦命となり、神社名がそれにならって動いたとしてもやむ無いことであろう。ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命の智・仁・勇に秀でた英傑智謀のご神徳を尊び、崩御されたとする北陸の土地から慈照方便深く伐苦与楽の神であり、和光同慶の眼を開き給もうて小児を愛し万民撫育の慈愛の御紳徳の高い鬼子母神をお迎えして合祀し、二柱の御神霊を併せて楢大明神として祭祀したのである。
 爾来、大明神の奇・幸・和・荒御魂の御紳徳に対する人々の崇敬は弥が上にも高まり、中世から近世に当社が広く人口に膾炙したのである。その盛況ぶりは、奉納された玉垣や灯篭に刻まれている氏名が県内一円は云うに及ばず機内一円に及ぶことからも推測されよう。中でも、大阪長堀の商人伊丹屋政介の奉納した神宮皇后が応神天皇を竹内宿禰に預けて出陣される様子を描いた県下屈指の大絵馬、笠置の酒造家大倉一族、大阪屋一族等の崇敬者が奉納した大灯籠等に加えて弘化3年に大阪島内南畳屋町山田屋善七倅楢吉が世話人になり狛犬彫士高松彦四郎、妻ことによって寄せ木彫りの狛犬を奉納していてまた、八代目市川団十郎が厚い信仰を寄せていて弘化5年(1848)紳井に『ならの葉の広き恵みの神ぞとは、この三益井を汲みてこそ知れ』の和歌と一族の男七人、娘五人の名前と桝三重ねの家紋を刻んだ井筒を寄進している等の事情から頷けよう。更には、文久2年(1861)には春日大社の五十二次式年造営に当たり神殿の払い下げを受ける等御祭神の御神徳の高さが伺い知ることが出来る。
 明治以降の治乱興亡の時代にあって常に万民を慈しみ、健やかな子供を授け、育て給うて幸せな恩頼を蒙らしめ給うとして、氏子崇敬者の畏敬の的となっている。

由緒書



楢神社

楢集落の東南、楢川の南岸に鎮座する旧指定村社で、五十狭芹彦命を祀る。五十狭芹彦命は考霊天皇の皇子で、吉備国を平定し、名を吉備津彦命と改めた。当社はもと約1キロ東の東大寺山にあったと伝え、今旧社地に天照大神を祀る神明神社があり、当社を下の宮というのに対して上の宮ともいう。楢村の鎮守であるが、本地を訶梨帝母(鬼子母神)とし、近年は多産の神として信仰され、ここの神に授かった子に楢または奈良の字を付けたという。境内の井戸水はまた子授けの霊水といわれている。
例祭は十月十日で、神前にザクロの実が供えられ、十一日には上の宮への渡御がある。鬼子母神の紳像は、種子の多い多産のシンボルとしてのザクロの実を持っている。本殿は春日造一間社檜皮葺で、古老の言では文久二年(1862)の春日社式年造営の節、払い下げられ、氏子達が担いで帰ったと伝える。

奈良県史



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