和爾下神社
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   【延喜式神名帳】和爾下神社二座 大和国 添上郡鎮座
   【延喜式神名帳】高橋神社 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】和爾下神社
   【住所】奈良県天理市櫟本町2490
       北緯34度37分11秒,東経135度50分6秒
   【祭神】素盞嗚命 大己貴命 稻田姫命
       柿本氏がその祖神・天足彦国押人命を主祭神として祀ったもので、一座は不詳

   【例祭】10月13日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄の水を引くため高瀬川の水路を作った
       この森を治道の森といい、宮を治道社といった
       明治維新の後式内和爾下神社に認定

   【関係氏族】和爾氏の同族柿本氏
   【鎮座地】この地は柿本寺の跡であり、古瓦も出土する。
        柿本寺は神宮寺であったと思われ、当然当社も古くからこの地にあった

   【祭祀対象】柿本氏の氏祖
   【祭祀】素盞鳴尊を祭祀したというので牛頭天王社、治道宮天王とも俗称された
   【社殿】本殿は三間社流造桧皮葺 
       桃山時代の建築様式を伝え、昭和13年3月に国宝に指定、今は重要文化財
       若宮・拝殿

   【境内社】十二神社・巌嶋社・琴平社・大年社・恵美須社・住吉社
       天照皇太神宮・稻荷社・金比羅社・猿田彦社 

   【神宮寺】柿本寺

今、和爾下神社は東西二社にわかれて鎮座するが(天理市櫟本町・大和郡山市横田町)、延喜式編纂当時から二社だったのかどうかは不明。
参道の長い、大きな神社である。
治道社・治道宮とも称し、鎮座の山を治道山・治道森とも呼ばれている。
当社境内に柿本寺があり、和爾氏の分岐氏族柿本氏の氏寺であり、また当社の神宮寺的な寺であつた。
中世には柿本宮とも称せられた。素盞鳴尊を祭祀したというので牛頭天王社、治道宮天王とも俗称された。
前方後円墳の後円部に社殿を建てて祀っている。
より嚴密に云うと、櫟本町の神社は境内の廃柿本寺の存在よりみて和爾氏の同族柿本氏の祖、横田町の神社は櫟比氏の祖神を祭祀したものとみてよい。


和爾下神社

櫟本の治道山、字宮山に鎮座し、素盞嗚尊(中)と大己貴命(一名大国主神)(左)と稲田姫命(右)の三柱を祭神としている。 今より1070余年前に藤原時平等が醍醐天皇に献上した延喜式神名帳に「和爾下神社二座」とある。大和志(享保21年関祖衡編)には「和爾下神社二座、一座ハ櫟本村ニ在リ曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ横田村ニ在リ曰ク下治道天王ト号シ、近隣十一村共ニ祭祀ニ預ル。」とあり、また大和名所図会(寛政3年秋里籬島輯)にも「和爾下神社二座、横田村と櫟本村とにあり、治道天王と称す、神名帳に出」とある。新撰姓氏録考證(栗田寛著)には「奈良朝神社注進状に據れば和爾下神社の神官は櫟井氏にして祭神は天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命の二座なり」とある。共に櫟井臣・和珥臣の祖神であり、明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑前の其筋へ差出した記録には旧祭神として「本社、天足彦国押人命・彦姥津命・彦国葺命・若宮難波根子武振熊命」とある。新撰姓氏録によれば「櫟井臣、和爾部同祖、彦姥津命(孝昭天皇皇子天足彦国押人命の後なり。)柿本朝臣、天足彦国押人命の後なり。和爾部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり。」とある。
しかるに時代移り現在の祭神は神社明細帳に本社大己貴命(一名大国主命)素盞嗚命・稲田姫命をまつり秋祭は10月14日、若宮は事代主命とある。素盞嗚命、即ち牛頭天王として崇め7月14日を祇園祭として賑わうのである。
東大寺要録には神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れる水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流するよう河川の造り替えをし道路をも改修した。12月10日に工事を初め翌4年4月1日に竣工してこの森を治道の杜といい神社を治道宮といった。寿永2年(1183)藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が著わした柿本朝臣人麻呂勘文には「添の郡石上寺の傍に祠有り治道社と号す、祠の辺の寺柿本寺と号す。是人麻呂建つる所なり。祠の前の小塚人麿の墓と名づく、清輔往て之れを観る所謂柿本寺の礎石僅に存す人麻呂の墓高さ4尺許り、因て卒都婆を建る云云」とある。今から780余年前に「治道社」の名が見える。治道山柿本寺跡からは白鳳時代の古瓦が出土している。
和爾下神社の石燈籠にも「治道宮天王」(元和元年銘)とあり、鳥居の古額にも「治道宮、黄檗南源」とあった。現今のは文秀女王の御染筆で「和爾下神社、大和式部」とある。
大友文書によれば建武4年(1337)6月26日南都警固の狭間正供・出羽泰貞等が天王山(治道社)と柿本寺に陣取って南朝軍と戦うこと3日、南軍敗れて遂に櫟本は北軍の領となった。時に北軍に櫟本春徳丸の名が見える。秋祭渡御の御神刀の鞘に朱字で「奉寄進牛頭天王御宝前(貞享元年)」とある。
本殿は3間社、流れ造り桧皮葺き1間向拝づき、桃山時代の特色のある極彩色の優美な建築である。昭和13年7月13日附で国宝建造物に指定され現在は重要文化財である。古記録によると慶長年中(1596−1614)の本殿改造以来、屋根替葺は寛永・寛文・明暦・元禄・宝永・享保・寛保・宝暦・明和・安永・文政・天保・明治20年・昭和13年・同46年の15回が記録されている。天保13年度の本殿屋根替代は銀1貫66匁・9月晦日より日数48日、11月17日上遷宮とある。明治27年11月に若宮拝殿が建ち同29年4月13日に本社拝殿が落成している。昭和46年10月本社屋根替と拝殿改築、社務所の新築が行われた。
昔は細男座・田楽座・御輿座の3つの宮座があった。各々の頭屋では10月12日御供つきがあり14日には各頭屋から素襖を着た騎馬の御幣頭人、青竹をついた羽織袴の警固は荷前・騎馬姿の甲冑を従えてお仮屋の陣屋へ入り渡御の時には神輿のあとからついて1キロ西の二つ鳥居のお旅所まで渡ったのであるが昭和19年から全く簡略になったのである。。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



和爾下神社

神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄の水を引くため、高瀬川の水路を今の参道に沿った線に移し、道も新しく真っ直ぐに作られたもので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。
和爾下神社古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた一族の氏神であったが、今は櫟本町の鎮守の神社である。
この治道社(春道社とも書く)の祭神・素盞鳴命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。
明治初年に、延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて、社名を和爾下神社と定めた
今の社殿は三間社流れ造り、檜皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。
天理市教育委員会

社頭掲示板




和爾下神社古墳

東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。全長約120m、後円部直径約70m、高5m、前方部幅50mである。
前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。当古墳と、東大寺山古墳、赤土山古墳及びシヤープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。
当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。 内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、また昭和59年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪円筒棺が検出された。これらの遺物により古墳の築造時期は、4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
天理市教育委員会

社頭掲示板



【文化財】

重要文化財(建造物) 慶長年間(1596−1615) 桁行三間、梁間一間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺


参考 高橋神社に比定する

崇神紀8年4月條に「高橋邑人」とある他に、平尾山と高橋山の間を流れる川を高橋川(現高瀬川)といひ、これが山辺と曽布両縣の境をなしてをり、これに沿つて高橋邑があつた、とする(『天理市史』昭和33年)。
志賀剛氏は、『式内社の研究』のなかで、『東大寺要録』神護景雲3年(769)に「高橋川一井三池右爲瀬櫟本庄田穿也」とあるを引き、現在の礫ノ本川であるとし、櫟本町の東北部を高品とよんでいるところから、現在式内の和爾下神社(もと治道天王社)と称するものがそれだとする。ちなみに、高橋臣が膳夫・膳臣であることと、櫟本に膳史といふ地名があり、雑役免帳に「膳夫寺田二町」といふ記事あるをもつて、高橋神社を櫟本町にあるとする(『天理市史』)。

式内社調査報告




和爾下神社

『延喜式』神名帳にある和邇下神社二座のうち、一座は天理市に、一座は大和郡山市に鎮座の社があてられている。『大和志』に、一座は櫟本村に在り、号して上治道の天王といい、近隣五村に祭祀に預る。一座は横田村に在り、号して下治道天王といい十一村共祭祀に預るとある。  前者は、古代の上ッ道と横田道の交差点に、後者は、高瀬川と和邇川の合流点から1.5km西にあり、二社は東西線上2.5kmを距てて鎮座している。二社とも中央に、素盞鳴命、左に大己貴命、右に櫛稲田姫命を祀っている。前者の鎮座地は、東大寺櫟庄で神護景雲年中(767−70)から開発のため池・水路を造り替え、横田道も改修されたと『東大寺文書』に出る地域である。寿永3年(1184)の「柿本朝臣人麻呂勘文」は、添上郡石上寺傍らに社あり、春道社と称す。その社中に寺あり柿本寺と称すとみえ、古くから治道の称のあった所で、柿本寺は当社神宮寺だった。人丸塚があり、寺跡から奈良時代の古瓦が出土する。本殿は桃山様式の三間社で、重要文化財に指定されている。後者は、近世まで添上郡の属した所で、神社北隣の横田下池から弥生期の遺物が検出されている。横田郷の郷社として、南山城の祝園村まで氏子があったと伝え、古代和邇氏の勢力範囲の広さを思わせる。横田の社の周辺は、かって柿本氏と同族の櫟井氏の根拠地であったとみられている。『新撰姓氏禄』に「櫟井臣、和邇部同祖、彦姥津命(孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後也。)。柿本朝臣、天足彦国押人命の後也。和邇部、天足彦国押人命三世孫彦国葦命の後也」とあるところから考えると、本来は前者の櫟本の社には柿本氏の租紳を、後者の横田の社には櫟井氏の租紳を祀る神社で、共にその租紳の本源は和邇氏一族の租紳天足彦国押人命でなかったろうかとみられるが、いつのころからか現祭神となり、牛頭天王とも呼ばれるようになった。

奈良県史



柿本寺跡

創建:奈良時代?
このあたりにはかつて、柿本寺という寺がありました。
この寺は名前の通り柿本氏の氏寺で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが今の歌塚だといわれています。寺跡には今も礫石の一部が残っており、奈良時代の古瓦が採集されています。
文献では延久2(1070)年の、『興福寺雑役免帳東請部』にその名が見えるのが最初で、寿永2(1183)年の『柿本朝臣人麿勘文』に「春道社の杜の中に寺あり、柿本寺と号す」と記されています。南北朝時代の建武4(1337)年には北朝軍の陣地がおかれました。
室町時代頃には現在の柿本小学校西側の地に移転し、江戸時代には学僧が多く出て和歌や茶の湯に観しみました。
明治時代の初め頃に廃寺となりましたが、南北朝時代前後に描かれた「柿本宮曼茶羅」ほかの寺宝が今に残されています。
なお、今の歌塚の碑は享保1(1732)年に森本宗範や怖本寺の僧らによって建立されたものです。

社頭掲示板



和爾下神社

和爾は前に同じ、下は志母と訓べし、(赤叛比古神社に対へて、下の字を加へしなるべし)○祭神和爾部氏祖神歟〇一座櫟本村に在す、今上治道天王と称す、一座横田村に在す、下治道天王と称す、(大和志、同名所図会)〇日本紀、神武天皇己未年2月、和爾坂下有居勢祝者云々、
類社
若挾国三方郡和爾部神社の條見合すべし
氏人
日本紀雄略天皇巻、春日和爾臣深目、

神社覈録



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