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社名は
全国神社祭祀祭礼総合調査」によれば『穴吹神社』であるが、社頭掲示板や社頭石標では『穴栗神社』となっている。 「穴吹」「穴次」「穴咋」「穴久理」「穴栗」などと表記されてきた。 大和志料は、「穴咋が本字で、咋・吹・次の草書体が相似ていることから、穴咋を穴吹と誤り、更に穴次と誤ったもので、今、これをアナクリと称するのは、アナクヒの転訛したものであろう」 (水田の中に島状の樹叢の中に鎭座する 参道に万葉歌碑がある。本殿は四棟並んでいる。 向かって左から「青榊社」「辛榊社」「穴栗社」「伊栗社」と並んでいる。 このうち「穴栗」「井粟」両社は、平安末期、春日の社司、中臣祐房が横井村から観請したものと伝える 万葉集に、「妹が家に 伊久里の杜の 藤の花 今来む春も 常かくし見む」 巻17−3952 高安王 南都春日社の境内末社に迎えられるのは12世紀中葉であるが、その勧請以前、穴咋村にある時から春日社の境外末社として、特別の関係が窺われる。 「伊栗社」は式内「宇奈太理坐高御魂神社」に比定されている |
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穴栗神社(伊久理の杜:いくりのもり) 奈良市横井一丁目677番地 御祭神 伊栗(いぐり)社 (太玉命:ふとだまのみこと) 穴栗(あなぐり)社 (高御産霊尊:たかみぬすびのみこと) 青榊(あおさかき)社 (青和幣:あおにぎて) 辛榊(からさかき)社 (白和幣:しろにぎて) この神社の鎮座する地は、古く「日本書紀」景行天皇(第12代)の条に、「春日穴咋邑」と出ているところです。神社の名を穴吹・穴次と書くものもありますが、春日大社の記録によると、平安時代に、この地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請(分霊)されたと書かれています。境内にある元禄四(1691)年建立の社号標石にも「穴栗四社大明神』とあり、穴栗は古くからの呼び名です。 現在、穴栗神社は、横井東町の氏子がお祀りしています。 「萬葉集」に 妹が家に 伊久里の杜の 藤の花 今来む春も 常かくし見む −高安王−(巻17−3952) と詠まれている「伊久里の杜』は、井栗の神を祀っていた、この地です。 歌は、天平18(746)年8月7日に、越中守大伴家持の館での宴の場で、玄勝というお坊さんが伝誦したものです。作者の高安王(大原高安)は、天武天皇の皇子長親王の孫にあたり、奈良の都の人です。 「恋しい人の家に通っていく伊久里の杜に咲く藤の花よ、まためぐってくる春にも、いつもこのように眺めていたいものだ」と詠んでいる作者は、藤の花の咲くころ、このあたりを通って、恋しい人のもとを訪ねたのでしょう。 境内の萬葉歌碑は、平成10年5月に、平城萬葉教室と横井東町自治会の協力によって建立されました。 「伊久里の杜」萬葉歌碑建立実行委員会 社頭掲示板 |
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穴栗神社 JR奈良駅天理行き奈良交通バスで横井町下車約300m。古市集落西方に鎮座する。『日本書紀」景行天皇55年の条の「春日穴咋邑」にあてられる地が鎮座地で、穴栗神社ともいう。『延喜式』神名帳に登載された神社にあてられている。 本殿は春日造四社連棟で、右から主神の天太玉命を祀る伊栗社・高皇産霊神を祀る穴栗社、青幣を祀る青榊社、白幣を祀る辛榊社である。古くは横井村の北西に鎮座していたが、寛文年中(1661−73)古市村の領主藤堂和泉守によって現社地に遷座されたので、現在も社地は古市町ながら横井町の氏神になっている。例祭は10月10日。境内社は厳島神社(市杵島姫命)・稲荷神社(保食神)・御霊神社(神武天皇)である。 奈良県史 |
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穴次神社 穴次は阿那都芸と読り、〇祭神猿田彦命、(頭注)○古市村に在す、(大和志、同名所図会)今穴栗明神と称す、 上田百木云、旧訓アナツキアナフキフエフキなどあり、共に誤なり、穴咋是なり、延暦7年8月対馬守正六位上穴咋皆麻呂賜姓秦忌寸、』伴信友云、頓阿自華神明帳に、笛吹大明神とあるは当社か、亦旧事紀建多乎利命笛連祖の條劈頭に、神名帳云大和国添上郡笛吹神社とせるは拠志れず、当社穴吹にフエフキなど、假字つける本もあるよりの疎漏なり、連胤按るに、日本紀、景行天皇55年2月壬辰、以彦狡島王邦東山道十五國都督、豊城命之孫也、然到春日穴咋邑、臥病而薨之、とあるを思へば穴咋なるべく、かつ穴栗明神と称すも、穴咋と語近けれど、諸本穴咋と書しを見ざれば改め難し、猶後勘をまつのみ、景行紀の穴咋邑は、奈良豆比古神社に由縁あり、又一説に、春日の末社穴栗社を、社記に穴次神也とあるを以て、当社の事と思へるは違へり、こは古市村なるぞ正しかりける、当社を穴栗明神といふは、春日の末社に祀りて後、其号の移りたるならん、亦云、旧事紀の劈頭は論なく誤也、笛吹明神の事は忍海郡葛木坐火雷神社の條見るべし、 神社覈録 |
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