和爾坐赤阪比古神社
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   【延喜式神名帳】和爾坐赤坂比古神社(大 月次/新甞) 大和国 添上郡鎮座
          (旧地)和爾坐赤坂比古神社【旧地】

   【現社名】和爾坐赤阪比古神社
   【住所】 奈良県天理市和爾町1194
       北緯34度37分38秒,東経135度50分20秒
   【祭神】阿田賀田須命 市杵嶋比賣命
       「阿田賀田須命乎」『神名帳考証』
       赤坂比古命と同体説『神社覈録』
       「祭神赤坂比古命、何神ナルヲ知ラズ、蓋シ和珥氏ノ祖神ナラン」『大和志料』
    

       延喜式にいう祭神一座とは阿田賀田須命のことで、社名にいう赤坂比古とはこの命を指すという
   【例祭】1月1日 元旦祭 2月17日 祈年祭 10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】和爾氏の氏神としてその成立は極めて古い
       神亀元年(724)以前に神戸の施入があった
       『新抄格勅符抄』に「和爾神四戸 大和國」とあり
       平安時代初期頃には神階従五位下であった
       貞観元年(859)正月従五位上『三代実録』

   【関係氏族】和珥氏
   【鎮座地】式社登載以降は現在地にあったと見られる
        旧地は、現在地よりさらに北東に登った和爾池の南、天神山にあったという

   【祭祀対象】和爾氏祖神
   【祭祀】江戸時代は「天王」「大明神」と称す
   【社殿】本殿 
       拝殿・物入

   【境内社】春日・八幡・山之神
   【神宮寺】境内に常楽寺があった

櫟本町を西南に望む標高約90メートルの台地に鎮座する。集落の中心にあり、小さな神社である。
口碑に依れば、横穴式古墳の上に鎭座し数十年以前までは、石郭をみることが出來たが、入口を閉さぎ今日に至つたと云う。
旧地は、現在地よりさらに北東に登った和爾池の南、天神山にあったという。
和爾氏は古代の有力な豪族で、孝昭紀には和珥臣の始祖として皇子天足彦国押人の名が見え、孝昭記は天皇の兄・天押帯日子命を春日臣・大宅臣・栗田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣などワニ系十六氏の始祖としている。
赤坂比古はおそらく和珥氏の祖神であろう。赤坂の地名は残らないが、和爾の集落の東には赤い土が露出していて、いかにも赤坂という感があるとのこと。
康保4年(967)7月似前に東大寺尊勝院根本所領の一庄として和爾庄が成立し、東大寺守護神として和爾庄の鎭守的性格を帯びるに至つた。その後和爾庄は東大寺より離れ、興福寺の雑役免田の一庄となった。
境内に常楽寺(神宮寺)があった。
当社の東約300mにある丘陵部にやや大きめの池があり、これが旧和爾池で、その西側の小高い山が天神山かと思われる。


和爾坐赤阪比古神社

櫟本の集落を西南に望む標高約90mの台地に鎮座する神社で、式内大社和邇下赤坂神社にあてられている。祭神は現在、阿田賀須命と市杵島姫命としているが、『大和志』には「祭神赤坂比古命、何神ナルカヲ知らず、蓋し和邇氏の租紳ならし」といっている。『日本書紀』の孝昭記に、和珥氏の始祖として皇子天足国押人の名が見え、『古事記』には、天皇の兄の天押帯日子命を、春日・大宅・桑田・小野・柿本・壱比葦の各臣などワニ系16氏の始祖としている。この地方を本貫に、北は春日山西麓一帯に移住した古代の有力な氏族であった。  創始は、明らかでないが、すでに天平2年(730)の『大倭国正税帳』(正倉院文書)に、「丸神戸、穀五〇斛七斗九合耗九斗九升四合、定四十九斛七斗一升五合替、(以下略)」などがあり、『新抄格勅符抄』所収の大同元年(806)牒にも、「和邇神四戸大和」とあるが、古くから名ある神社であることが分かる。『三代実録』には貞観元年正月27日の条に当社の神を従五位下から、従五位上に神階を進められている。  『大和志』に「今天王と称す、域内に常楽寺あり。上梁文に曰、天正6年(1578)重修】とある。神宮寺として常楽寺があったが、明治初年廃寺となり、仏像その他は隣接する浄土宗善福寺に移された。当社社務所に「天正14年(1586) 諸願成就 奉懸牛頭天王 皆令満足岩鶴敬白 9月8日」との墨書銘のある銅板製懸仏のほか、元和6年(1620)銘の懸仏がある。なお境内には、横穴式石室の円墳がある。

奈良県史



和爾坐赤坂比古神社 大月次新嘗

和爾は假字也、赤坂は安加佐加と訓べし、和名鈔(郡名部)備前國赤坂、(仮字上の如し)比古は假宇也、○祭神明か也○和爾村に在す、今天王と称す、(大和志、同名所図会)○日本紀、神武天皇己未年2月條、和珥坂下有居勢祝者、○旧事紀、(地神本紀)大國主神八世孫阿田賀田須命、和邇君等祖、』姓氏録、(大和国神別)和仁古、(古は君の誤)大國主六世孫阿太賀田須命之後也、」同、(河内國神別)宗形君、大國主命六世孫吾田片隅命之後也、
連胤按るに、備前國赤坂郡宗形神社、すなはち吾田片隅命にて、其地赤坂郡なれば、赤坂比古命とも称しゝを、其號を以て当國に祭れる也、されば備前國宗形神社伺体なる事明らけし、考証に赤坂阿田賀語渉と云るは非也、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從五位下和爾赤坂彦神從五位上、

神社覈録





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