延喜式にいう祭神一座とは阿田賀田須命のことで、社名にいう赤坂比古とはこの命を指すという
【例祭】1月1日 元旦祭 2月17日 祈年祭 10月10日 例祭
【社格】旧村社
【由緒】和爾氏の氏神としてその成立は極めて古い
神亀元年(724)以前に神戸の施入があった
『新抄格勅符抄』に「和爾神四戸 大和國」とあり
平安時代初期頃には神階従五位下であった
貞観元年(859)正月従五位上『三代実録』
【関係氏族】和珥氏
【鎮座地】式社登載以降は現在地にあったと見られる
旧地は、現在地よりさらに北東に登った和爾池の南、天神山にあったという
【祭祀対象】和爾氏祖神
【祭祀】江戸時代は「天王」「大明神」と称す
【社殿】本殿
拝殿・物入
【境内社】春日・八幡・山之神
【神宮寺】境内に常楽寺があった
櫟本町を西南に望む標高約90メートルの台地に鎮座する。集落の中心にあり、小さな神社である。 口碑に依れば、横穴式古墳の上に鎭座し数十年以前までは、石郭をみることが出來たが、入口を閉さぎ今日に至つたと云う。 旧地は、現在地よりさらに北東に登った和爾池の南、天神山にあったという。 和爾氏は古代の有力な豪族で、孝昭紀には和珥臣の始祖として皇子天足彦国押人の名が見え、孝昭記は天皇の兄・天押帯日子命を春日臣・大宅臣・栗田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣などワニ系十六氏の始祖としている。 赤坂比古はおそらく和珥氏の祖神であろう。赤坂の地名は残らないが、和爾の集落の東には赤い土が露出していて、いかにも赤坂という感があるとのこと。 康保4年(967)7月似前に東大寺尊勝院根本所領の一庄として和爾庄が成立し、東大寺守護神として和爾庄の鎭守的性格を帯びるに至つた。その後和爾庄は東大寺より離れ、興福寺の雑役免田の一庄となった。 境内に常楽寺(神宮寺)があった。 当社の東約300mにある丘陵部にやや大きめの池があり、これが旧和爾池で、その西側の小高い山が天神山かと思われる。 |
和爾坐赤阪比古神社 櫟本の集落を西南に望む標高約90mの台地に鎮座する神社で、式内大社和邇下赤坂神社にあてられている。祭神は現在、阿田賀須命と市杵島姫命としているが、『大和志』には「祭神赤坂比古命、何神ナルカヲ知らず、蓋し和邇氏の租紳ならし」といっている。『日本書紀』の孝昭記に、和珥氏の始祖として皇子天足国押人の名が見え、『古事記』には、天皇の兄の天押帯日子命を、春日・大宅・桑田・小野・柿本・壱比葦の各臣などワニ系16氏の始祖としている。この地方を本貫に、北は春日山西麓一帯に移住した古代の有力な氏族であった。 創始は、明らかでないが、すでに天平2年(730)の『大倭国正税帳』(正倉院文書)に、「丸神戸、穀五〇斛七斗九合耗九斗九升四合、定四十九斛七斗一升五合替、(以下略)」などがあり、『新抄格勅符抄』所収の大同元年(806)牒にも、「和邇神四戸大和」とあるが、古くから名ある神社であることが分かる。『三代実録』には貞観元年正月27日の条に当社の神を従五位下から、従五位上に神階を進められている。 『大和志』に「今天王と称す、域内に常楽寺あり。上梁文に曰、天正6年(1578)重修】とある。神宮寺として常楽寺があったが、明治初年廃寺となり、仏像その他は隣接する浄土宗善福寺に移された。当社社務所に「天正14年(1586) 諸願成就 奉懸牛頭天王 皆令満足岩鶴敬白 9月8日」との墨書銘のある銅板製懸仏のほか、元和6年(1620)銘の懸仏がある。なお境内には、横穴式石室の円墳がある。 奈良県史 |
和爾坐赤坂比古神社 大月次新嘗 和爾は假字也、赤坂は安加佐加と訓べし、和名鈔(郡名部)備前國赤坂、(仮字上の如し)比古は假宇也、○祭神明か也○和爾村に在す、今天王と称す、(大和志、同名所図会)○日本紀、神武天皇己未年2月條、和珥坂下有居勢祝者、○旧事紀、(地神本紀)大國主神八世孫阿田賀田須命、和邇君等祖、』姓氏録、(大和国神別)和仁古、(古は君の誤)大國主六世孫阿太賀田須命之後也、」同、(河内國神別)宗形君、大國主命六世孫吾田片隅命之後也、 連胤按るに、備前國赤坂郡宗形神社、すなはち吾田片隅命にて、其地赤坂郡なれば、赤坂比古命とも称しゝを、其號を以て当國に祭れる也、されば備前國宗形神社伺体なる事明らけし、考証に赤坂阿田賀語渉と云るは非也、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從五位下和爾赤坂彦神從五位上、 神社覈録 |