宇奈太理坐高御魂神社
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   【延喜式神名帳】宇奈太理坐高御魂神社(大 月次/相甞/新甞) 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】宇奈太理坐高御魂神社
   【住所】奈良市法華寺町 600
       北緯34度41分23秒,東経135度48分5秒
   【祭神】高御魂尊(中座)・天太玉命(東座)・思兼命(西座)
       延喜式に祭神一座とあるから、本来の祭神は高御魂尊一座であろう

   【例祭】10月10日
   【社格】旧村社 延喜式四時祭の官幣
   【由緒】持統紀6年(692)12月に新羅国物を菟名足社に献納している
       天平2年(730)12月『新抄格勅符抄』には「大和八戸・尾張五戸」あわせて十三戸の神戸とあり
       貞観元年(859)4月10日法花寺薦枕高御産栖日神(当社)正三位
       正暦2年(991)東大寺春日庄内に大社菟足社があり
       寛弘9年(1012)3月の大和國今木荘坪付案に所在あり
       弘安元年(1278)7月の仏餉田寄進状に「桜梅天神」
       延宝9九年(1681)『大和名所記』「法華寺西南邊に楊梅の天神といふ社あり」
       宝暦3年(1753)法華寺支配の一社で、社名を「桜梅天神」とする
       明治維新に当つて、法華寺の支配を離れ、法華寺村住民を以て神官に宛てた

   【関係氏族】 
   【鎮座地】当初当社東の法華寺と法連寺町との間にあったウタリの地(位置不明)にあった
        これが荒廃したため奈良市横井町の穴栗神社付近に遷
        奈良県古市町 → 春日大社境内に勧請、その後衰微と伝わる。
        いつ現地へ遷したのか不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「桜梅天神」と称す
   【社殿】本殿三間社・流造・桧皮葺 重要文化財

   【境内社】天鈿女・猿田彦・手力雄・大宮媛・豊岩窓

平城宮跡の東端に島状の叢林がこんもりと見える。本殿は室町期の重要文化財(重文)
武内宿祢の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇6年(692)2月には新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足の五社に奉るとある。その一社で、この神社の神戸は正倉院文書の天平2年(730)大和税帳新抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている。江戸時代には楊梅神社と呼ばれていた。
この地は楊梅宮が造営された東院の地とされており、当社は東院が使用されなくなった平安遷都以降に勧請されたと思われるが、それが何時の時代かははっきりしない。


宇奈太理坐高御魂神社略記

鎮座地 奈良市法華寺町六百番地
御祭神 三座
高御魂尊(中座)
高天原にましました神で天御中主尊と神産日尊と共に造化の三神として御徳極めて高く鎮魂の神であらせ給う。高天原に大事ある毎に主長として諸神を率いて事に当たり、常に天照大神を助け、八百万の神を指揮し給うた神
天太玉命(東座)
高御魂尊の御子、神事を掌給う神で天岩戸の祈祷のとき、その御前で太玉串を捧持され祭祀を以て天照大神にお仕え遊ばされた神
思兼命(西座)
高御魂尊の御子。数多くの思慮を一身に兼ね持ち給うたと言う意で高天原に大事あった時必ず画策して事ならなかったことは無いと言う。
由緒
延喜式内の大社で月次・相嘗・新嘗の幣に預かっていた。古文書では宇奈足とも菟足とも書いている。武内宿禰の勧請と伝えられ「日本書紀」によると持統天皇六年(692)二月には新羅の調を伊勢住吉紀伊大倭菟名足の五社に奉るとある。その一社でこの神社の神戸は正倉院文書の天平2年(730)大振る税帳新抄格勅符抄に載っているが、何れも神名は菟名足となっている江戸時代には楊梅神社と呼ばれたこともあり、いま「うなたり社」とか「西の宮さん」とか言っているのは近郷だけでの通称の略称である。本殿は室町時代初期の建築遺構を残し、三間社流造檜皮葺で国指定の重要文化財である。境内一帯は平城天皇の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もある。
境内社
みな天孫降臨に随従された神々を祀る
天鈿女命社
天岩戸の前で神楽を舞い天孫降臨に随従された女神、芸能の祖神
猿田彦命社
天孫降臨の時先頭に立って八街の邪神を祓い交通安全に導かれた神
手力男命社
天岩戸の変の時岩戸を開いて天照大神を助け申し上げた力の強い神で天孫降臨に随従された神
大宮媛命社
太玉命の御子、天照大神に仕え世を平和に導かれた神
豊岩窓命社
御門の神、天孫降臨のとき天照大神の勅を承り、思兼命、天力男命と共に豊葦原に降り給うた神

社頭掲示板



宇奈太理坐高御魂神社

『大和志』に宇奈多理坐高御魂神社法華寺村にあり、今楊梅天神と称すとあり、式内大社の当社にあてられているが、横井町あたりに鎮座の社が当社だとの説もある。古来法華寺鎮守としてその管轄化にあったが、明治の神仏分離で紳域内の本地仏十一面観音は法華寺に移され、神社は地元村で祀られることになった。祭神は高皇産霊神・太玉神・思兼神。流造三間社本殿は室町初期の建築で、重要文化財。『日本書紀』持統天皇の6年(692)12月24日太夫等を遣わして、新羅の調を大倭菟名足外四社に奉ったとあり、『三代実録』貞観元年(859)4月の条に「従四位下法花寺坐神従四位上」とある外、「延喜」の制では大社として月次・相嘗・新嘗と出ている。
延宝9年(1681)の『和州旧跡幽考』の項に「法華寺西南辺に楊梅の天神という社あり。此のほとりにや。楊梅の宮をたてて天皇うつり給ふて後、五位以上を宴し給ふよし、くわしくは『続日本紀』にあり」と、光仁天皇の宝亀4年(773)2月完成したという楊梅宮は天神社のほとりではないかといっている。「楊梅」を転じて「桜梅」となったとみられ当社を桜梅天神ともいう。

奈良県史



宇奈太理坐高御魂神社 大月次相嘗新嘗

宇奈太理は假宇也、高御魂は多加美武須毘と訓ベし〇祭神明か也○法華寺村に在す、今楊梅天神と称す、(大和志)〇式二(四時祭下)相嘗祭神七十一座、宇奈足社一座、
比保古に、三代實録、貞観8年3月2日、大和國神皇産霊神授位を当社に配て、此神皇産霊神者高皇産霊也、神代巻曰、神高皇産霊尊此録落高字歟、と云るは杜撰也、故に今祭事記に從うて爰に出さず、式外の所に載す、
類社
山城國乙訓郡羽束師坐高御産日神社の下見合すべし
神宝
日本紀、持統天皇6年12月甲申、遣大夫等奉新羅調於菟名足社、
神位
三代実録、貞観元年4月10日乙未、授法花寺從三位薦枕高御産栖日神正三位、元慶3年6月8日丁卯、授注華寺正三位薦枕高御産栖日神從二位、
比保古、祭事記、別社として式外に収む、古事記伝、古史伝等当社の事といへり、連胤按るに、現在法華寺村に在すといへば、伝の説可ならんかと爰に収む、

神社覈録



宇奈太理坐高御魂神社

延喜式内社の大社で月次・相嘗・新嘗の弊に預かっていた。古文書では宇奈足とも菟名足とも書いている。
 武内宿禰の勧請と伝えられ、日本書紀によると、持統天皇6年(692)12月24日には、新羅の調を伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足に奉るとある。その一柱でこの神社の神戸は正倉院文書の大平2年(730)大和正税帳・新抄格勅符抄に載っているが、いずれも神名は菟名足となっている。
 江戸時代には揚梅神社と呼ばれたこともあり、今“うなたり社”とか“西の宮さん”とかいっているのは、近郷だけの通俗の略称である

社頭掲示板



宇奈多理坐高魂神社

うなだりにますたかみむすびじんじゃ
奈良市法華寺町。旧村社。祭神は高御魂尊・太玉命・思兼命。「桜梅天神」、あるいは「ウナタリサン」と称す。『延喜式神名帳』には「宇奈太理坐御魂神社(大月次相嘗新嘗)」とある。持統天皇6年(692)「12月甲申遣太夫等奉新羅調・・・菟名足社」と見える。『三代実録』元慶3年(879)「授法華寺正三位薦枕高御産栖日神従二位」とある。『新抄格勅符抄』に「大和八戸、尾張五戸」の封戸を受くとある。講あり。
例祭10月10日。

神社辞典



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