阿波神社[率川坐大神御子神社境内社]
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   【延喜式神名帳】率川阿波神社 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】阿波神社
   【住所】奈良県奈良市本子守町 18
       北緯34度40分52秒,東経135度49分32秒
   【祭神】事代主命
   【例祭】6月17日 例祭
   【社格】
   【由緒】宝亀2年(771)冬大納言藤原是公夢告で率川南方に創建
       仁壽2年(852)11月辛丑に從五位下『文徳實録』
       文永2年(1265)ころには阿波社が実在
       文明明応(1490頃)のころにも現存した
       天文元年(1532)7月の土一揆兵火によつて廃亡地となった
       享保年間(1716〜36)には、個人の宅地にあるかなきかの有様
       明治7年(1874)方一尺の社殿を記すも、社地・社領・氏子はない
       明治24年(1891)には境内坪数一坪、信徒九人
       大正9年(1920)に率川神社拝殿の西側に南面して社殿を建てて移転
       昭和34年(1959)率川神社境内整備にともなつて、現在の位置に遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】15世紀頃までは現西城戸町内(現在地の南約200m)に鎮座
        その後も西城戸町内に小さな祠があった
        大正9年(1920)に率川神社拝殿の西側に南面して社殿を建てて移転
        昭和34年(1959)率川神社境内整備にともなつて、現在の位置に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】中世は廃絶状態になった
   【社殿】本殿
   【境内社】なし

率川神社境内地にあり、その本殿瑞垣外東に南面して小祠がある。
宝亀2年(771)冬、大納言藤原是公の夢に『吾狭井御子神也。汝の氏神建布都神と共に阿波国に住む。今皇孫命の招集により建布都神とともに帝都に来臨す。建布都神は御笠山に、吾は率川の辺に住まんと思う。宜敷之を敬うべし』と。公この夢告により、神殿を造り、阿波より勧請し、阿波神と云う」とあり、藤原南家との関係が深い。
当初は、神祇令集解に、三枝祭を大神氏宗の判断によつで、率川大神御子神社で行ない、阿波神社の方は藤原氏によつて春日祭に準じて率川祭が祀られていた。
中世に、率川社祭が藤原氏の支持によつて一般化されると、『公事根源』の如く率川祭と三枝祭が同じものと認識されるようになり、文明九年(1477)頃には「率川明神三所、三枝明神。正一位也。」(『春日大明神垂跡小社記』)とあるように、大神御子神社三座が春日社の小社ということになり、阿波社は忘却されてしまった。
旧跡は西城戸町南側、東方より2軒目の人家の裏にあり、松樹1株を神木とし祀っていたが甚だ廃れていたという。
江戸中期の古絵図には、率川子守社から率川を越えた東南に、“阿波社古跡”とある。


率川阿波神社

社名 率川阿波神社
御祭神 事代主神
例祭 6月17日
今から約千年前の延喜式と云う古い書物に見えるお社で、御祭神は大物主大神の御子神で、俗に恵比須様と申上げている神様であります。
この恵比須様は奈良で一番古い福徳成就の神様であります。

社頭掲示板



率川阿波神社

率川は前に同じ、阿波は假字也、〇祭神詳ならず○南都西新屋町に在す、(大和志〇奈良人某が話に、当所町人惣年寄の内、西城戸町清水源臓が宅地之辺、率川阿波神社の旧地にて、同町南裏馬場町と云は、阿波社の馬場の跡と云、今は廃亡よし志れすと云り、)〇年中行事秘抄云、南家口伝云、率川社、右大臣藤原是公卿所建立也云々、(全文前なる率川坐大神御子神社の下見合すべし)
類社
伊賀國山田郡、伊豆國賀茂郡阿波神社、(各一座)下野國寒川郡阿房神社、
神位
文徳實録、仁寿2年11月辛巳、大和國率川阿波神授從五位下、

神社覈録



摂社 率川阿波神社

大物主大神の御子神さまである事代主神さま(恵比須さま)をお祀りし、『延喜式』にも見える古社。
社伝によれば光仁天皇の宝亀年間(770〜780)に藤原是公(ふじわらこれきみ)が創祀したと記されています。当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが時代と共に衰微し、明治期には小祠を残すのみとなりました。その後、大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し、昭和34年の率川神社境内整備に伴い末社の春日社・住吉社と共に現在の位置に遷座となりました。
奈良市最古の恵比須社であり、毎年正月4日の宵戎(よいえびす)、翌5日の本戎(初戎)には、商売繁盛を願う多くの参拝があります。

公式HP



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