狭岡神社
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   【延喜式神名帳】狭岡神社八座 大和国 添上郡鎮座

   【現社名】狭岡神社
   【住所】奈良市法蓮町 604
       北緯34度41分41秒,東経135度48分57秒
   【祭神】若山灯V神・若年之神・若沙那比売神・弥豆麻岐之神
       高津日之神・秋比売之神・冬年之神・冬紀若室葛根之神
       古老は「天神さん」と称し、「菅原天神の隠居」ともいう
       一般には菅原道真を祭ると考えていたと思われる

   【例祭】10月9日
   【社格】旧村社
   【由緒】霊亀2年(715)藤原不比等が創立
       仁寿2年(852)11月辛丑、狡岡神に從五位下『文徳實録』
       貞享4年(1687)「西かねなか町北がは西はづれ藪の内ニあり」

   【関係氏族】藤原氏
   【鎮座地】霊亀2年(715年)藤原不比等自分の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀
        また藤原房前の邸宅があつたとされる『今昔物語』
        この地に古くからあった

   【祭祀対象】藤原氏の禊ぎ場として、建てられた
   【祭祀】佐保丘天神、狭穂岡天神、狭岡天神等と称す
   【社殿】本桧皮赤土塗春日造
       拝殿・御供所

   【境内社】四所神社(天満神社)・惣社殿(金山神社)

丘の頂の神社。叢林有り。参道の坂道は石張り。
霊亀2年(715年)に、藤原不比等が、勅許をえて、自分の邸宅「佐保殿」の丘に、天神8座を祀ったことに始まった。
藤原氏の禊ぎ場として、建てられたといわれ、藤原氏は国政の大事や、氏神春日詣りには必ず狭岡神社に参籠し、日の出を待つて国政に掌ったという。
もと天神社を狭岡神社としているが、明治7年明細帳は、「或説云式内狭岡神社」としているだけである。当社であるという根処は、恐らく佐保がサオカと転訛するという点だけである。
階段左手に、「佐保姫旧跡保存地」という窪地があり、禊ぎ場の跡と伝。


狭岡神社

狭岡神社由緒
本狭岡神社は霊亀2年(西暦715年)藤原不比等(淡海公)が、国家鎮護、藤原氏繁栄のため勅許により己のが邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀し、崇拝しました。これが佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって、今の狭岡神社になったのであります。
次いで藤原淡海公は天平神護景雲年間に河内の国枚岡より、藤原氏の祖神である春日大明神を大和の国奈良の御蓋山へ移され祭祀せられました。これが今の春日神社であります。それ以来国政の大事や、氏神春日詣りには、藤原氏一門(公家、女官たち)が、この佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎をして、それより日の出を待って国政に掌り、春日社詣をしたと古事に出ています。
現在の狭岡神社は佐保の里一円の氏神様で、昔から、産業の天神、智恵の天神、災難よけの天神さんであると崇拝され、その霊験あらたかなことは氏子中ではよく知られているところであります
狭穂姫の伝説
狭穂姫、佐保姫、佐保川、佐保山と、佐保山のあちこちに『サホヒメ』の伝説が、山や谷間の霧のように二千年の歴史を秘めて漂うている。
当社境内にある『洗濯池』『姿見池』『鏡池』は、古事記や日本書紀に出ている狭穂姫(沙本毘売命、佐波遅比売、佐保姫)の伝説池であります。
佐穂姫の母は沙本之大闇見戸売、「サホノオオクラミトメ」父は日子坐王「ヒコイノマスノキミ」狭穂姫は母の所領が狭穂の丘陵にあったので幼小から成人するまで母と住んでいた。若い垂仁天皇とこの泉のほとりで恋のロマンスが生まれて垂仁天皇の皇后になられました。狭穂姫は反逆の兄上に殉じられた故か陵碑はどこにも現存しない。当神社の『洗濯池、鏡池』の伝説は貴重な存在で碑は現在常陸神社にあり何とか話し合って、何れかに永久保存にもっていくことが大事であると思う。

由緒書



狭岡神社

県立奈良高校の西に鎮座。旧村社。「延喜式」神名帳の添上郡「狭岡神社八座」とされる。八座の祭神は若山咋之神・若年之神・若沙那売神・弥豆麻岐之神・夏高津日之神・秋比売之神・久久年之神・久久紀若室綱根之神となっている。仁寿2年(852)11月、従五位下を授けられた(文徳実録)。地元では「菅原天神の隠居」といっており、境内には天神社と刻まれた灯籠が多い。社名の狭岡は佐保岡の母子音脱落ともいわれるが、「大和志」は「大神分身類社鈔並附尾」「大三輪神三社鎮座次第」に率川神社(現奈良市)北方、開化天皇率川坂上陵の東隣にある漢国神社(現奈良市)を「狭加岡・坂岡神社」と記すため、狭岡は狭加岡の加が脱落したものとして、漢国社を式内狭岡神社であると考証する。
「延喜式」神名帳や「文徳実録」仁寿2年(852)11月9日条などには率川坐大神御子神社・狭岡神社・率川阿波神社というように、率川に挟まれた形で狭岡が出、率川と狭岡に何らかの関連もあるように推定されるが確証はない。「大和志」は「在法蓮属邑佐保田」とし、現奈良市法蓮町・北新町・北市町などの尊崇が厚かった。なお社殿について永享7年(1435)の佐保田庄引付(天理図書館蔵保井文庫)に「天満宮遷宮事、造遷殿於材木者彼山松山也、板入目等者用奉加銭、此御殿神者春日御遷宮之時分買得御三之神殿出二十貫文被立申」とみえ、応永34年(1427)の春日社式年造替に際して、その第三殿を当社が買ったことを記している。「大乗院寺社雑事記」明応4年(1495)2月3日条に、佐保田天神領一反のあったことを記す。

寺院神社大辞典



万葉歌碑

君に恋ひいたもすべなみ奈良山の
 小松が下に立ち嘆くかも
      万葉集巻4593 
笠郎女(かさのいらつめ)
天平時代笠氏一族の娘はあなた恋しさの思いをどうすることもできず美しい松の木の下で只々あなたを待ちつつ、苦しい思いをしているのですと訴えます。
君は大伴家持、君の住む佐保のあたりを思いつつ歌ったのでしょうがこの恋は悲恋に終わったようです。

社頭掲示板



狭岡神社八座

狭岡は佐哀加と訓べし○祭神詳ならず○法蓮属邑佐保田に在す、(大和志O国人北浦定政云、狭岡社は奈良林小路漢國社なるべし、)考証云、狭岡佐保姫社、若沙那売神、配享若山咋神以下七神爲八座歟、
神位
文徳実録、仁寿2年11月辛丑、大和國狭岡神授從五位下、

神社覈録





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