地祇神社
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   【延喜式神名帳】地祇神社 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】地祇神社
   【住所】京都府京田辺市普賢寺下大門65
       北緯34度47分45秒,東経135度45分40秒
   【祭神】息長帶比売命 (配祀)大山祇神 大国主神
       祭神詳ならず 『神社覈録』
       不詳『山城綴喜郡誌』
       天目一命出口延経『神名帳考証』

   【例祭】10月18日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒は全く不詳である。
       古記録等への出現もなく、江戸時代に存在したことは伺えるが、詳細不明。
       明治6年(1873)村社に列格
       明治10年式内社に比定

   【関係氏族】
   【鎮座地】普賢寺境内に鎮守社として存在。
        普賢寺は天武天皇(在位673-686)の勅願により義淵僧正が開基した
        かつて、観音寺境内の北東に祀られていたという
        天文年間(16世紀中ごろ)現在地に移された

   【祭祀対象】
   【祭祀】継続は不詳
   【社殿】本殿は板葺の流造
       御宝屋・社務所

   【境内社】祈雨神社(祭神天之水分神)・稻荷神社(豊 宇気毘売神)

『特選神名牒』は、「クニツカミノ」と訓じている。
創立は聖武天皇による普賢教法寺造営時(あるいは、それ以降)の創建とみるのが順当であろう。
山裾。観音寺(普賢寺)本堂北西横にある。普賢寺鎭守としての性格を持っている。
近世普賢寺大御堂の鎮守社は『山城名跡巡行志』には
○地祇ノ神社 在同村 大御堂西山麓 今云権現大明神
〇地主権現ノ社 在同所 式内ノ社也
のようにあつて、どちらが"式内地祇神社"であるのか明瞭でない。これら二社の鎮守はむしろ両社あわせて式内地祇神社と考えられてきたようであり、社伝に「一は御霊天皇と称して継体天皇を祀り、一は山王権現と称して神功皇后を祠れり(『山城綴喜郡誌』)」とある。


地祇神社

正徳元年(1711)の「山州名跡志」には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二柱がみえる。
明治初めころは、地主神社と呼ばれていた。
京田辺市教育委員会

社頭掲示板



地祇神社

京田辺市普賢寺下大門65番地
大国主命、大山祇命、活気長足比売命をまつる式内社である。
明治初めのころは、地主神社と呼ばれていた。
正徳元年(1711)の「山州名跡志」には大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二社がみえる。
現在の本殿は三間社の流造で覆い屋のなかにある。この覆屋の石壇に「天文10辛丑年(1541)卯月吉日大西備前守」と刻まれたものがある。
当時、このあたり普賢寺谷の地侍たちは惣氏神の朱智神社や惣氏寺の普賢寺を中心に結束し、大西氏は指導的立場のひとりであった。元亀4年(1573)将軍足利義昭が槙島城で織田信長に対し挙兵するが敗れ、義昭は普賢寺谷を経て河内若江城へ出奔する。地元の所伝では大西備前守敏元が足利側でこれに参戦し将軍に従い若江城で討死したとされる。
例祭 10月18日
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

社頭掲示板



地祇神社

地祇は久爾都加美と訓べし、(上なる天神社に対へたるべし)〇祭神詳ならず、(比保古云、大巳貴命といふは信がたし、)〇上村に在す、(山城志)
類社
武蔵國入間郡國渭地祇神社、常陸國多珂郡佐波々地祇神社、

神社覈録



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