天神社
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   【延喜式神名帳】天神社 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】天神社
   【住所】京都府京田辺市松井向山1
       北緯34度50分42秒,東経135度43分51秒
   【祭神】天照大神 伊弉諾尊
       伊弊諾命・天照大神『山城綴喜郡誌』
       天津彦根命(山代直祖)『神名帳考証』

       延喜式に祭神一座とあり、山代直一族がその祖神を祀ったか

   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】
   【由緒】延暦4(785)年11月「祀天神於交野柏原」『続日本紀』
       延暦24年(805)2月2日草創とも伝
       明応元年(1492)修理を行なつた『山城名跡巡行志』

   【関係氏族】山代直
   【鎮座地】もとは現在地から道路を挟んで西の低い峰(美濃山)にあった

   【祭祀対象】
   【祭祀】松井集落の産土神として奉祀されてきた。
   【社殿】本殿は檜皮葺の流造
       拝殿・社務所

   【境内社】熊野神社・松尾神社・稻荷神社・八幡神社・春日神社
   【神宮寺】神宮寺として中性院があり、明治維新によつて廃絶

集落の西奥。細く長い石殿を昇った高台にある。瀟洒な本殿。
近世に至るまで松井集落の産土神として奉祀されてきた。
神宮寺として中性院があり、明治維新によつて廃絶した。
もとは山中にあり里即ち現所在地に移建されたと伝えられる。
中古の祭神は知り得ない。


天神社

社伝によれば、もとは松井交野ヶ原に創祀されたものを、現在地に移したという。
長岡京遷都の翌年・延暦4年(785)、桓武天皇が天神を交野柏原に祀ったことが続日本紀にみえる。この交野は現在の枚方市樟葉の交野天神社とされるが、ここ松井にも交野ヶ原・柏原の地名があり、社伝との関係が注目される
京田辺市教育委員会

社頭掲示板



天神社

天神社は、『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に記載されている式内社(しきないしゃ)である。明応2(1493)年に社殿が造営され、宮寺・中性院がおかれていた。しかし中性院は、明治維新の神仏分離により明治5(1872)年に廃寺となり、不動明王、薬師如来、歓喜王、役行者などの諸像を天神社に委託、大切に保管されている。平成5(1993)年、2年に渡る神殿の修復、彩色の復元、拝殿の建造が終わり、当時の鮮やかな色が今に蘇った。また境内には、愛宕(あたご)、厳島(いつくしま)、松尾(まつお)、熊野(くまの)、春日(かすが)、八幡(やわた)そして水分(みくまり)神社を祀っている。

京田辺市観光協会



【文化財】

本殿(京都府登録文化財)江戸中期・享保2年(1717)造営
山城地方に少ない二間社として貴重である。
平成4〜5年(1992--3)に屋根をもとの檜皮葺きに戻し、彩色の修理をおこなった。


天神社

京田辺市松井向山一番地
伊弉諾命と天照大神をまつる式内社である。
社伝によると、もとは松井交野ヶ原に創祀されたものを現在地に移したという。長岡京に遷都の翌年の延暦4年(785)桓武天皇が天神を交野柏原にまつったことが「続日本紀」にみえる。この交野は現在の枚方市樟葉の交野天神社であるとされるが、ここ松井にも交野ヶ原・柏原の地名があり、社伝との関係が注目される。江戸時代は、神宮寺の中性院によって管理されていた。
現在の本殿(京都府登録文化財)は、江戸時代中期の享保2年(1717)に、それまで二棟であったものを一棟にしたもので、山城地万では例の少ない二間社として貴重である。装飾が堂々かつ奔放で庇妻の虹梁等の絵様の渦は幅が広く活気がある。
平成4・5年(1992・93)に屋根をもとの檜皮葺きに戻し彩色の修理も行い、かつての姿がよみがえった。
例祭 10月15日
宵宮は松井祭太鼓が奉納される。
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

社頭掲示板



天神社

天神は阿麻都加美と訓べし、(下なる地祇神社に対へたるべし)○祭神詳ならず、比保古云、天照大神也といふは信がたし、○普賢寺庄天王村に在す、
各勝志云、土人称菅原天神、疑是神名帳所載天神社乎、」尤然り、
類社
安房國朝夷郡、備前国卸野郡天神社、(各一座)武蔵国多摩郡布多天神社、大麻止乃豆乃天神社、阿豆佐味天神社、穴沢天神社、同國入間郡物部天神社、土佐國長岡郡豊岡上天神社、

神社覈録



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