棚倉孫神社
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   【延喜式神名帳】棚倉孫神社(大 月次/新甞) 山城国 綴喜郡鎮座
   【延喜式神名帳】天神社 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】棚倉孫神社
   【住所】 京都府京田辺市田辺棚倉49
       北緯34度49分17秒,東経135度45分48秒
   【祭神】天香古山命
       棚倉孫『神社覈録』
       天香語山命=手栗彦命=棚倉彦『大日本史神祇志』

   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】推古天皇31年(623)9月相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命を勧請
       貞観元(859)年正月27日 從五位上『三代実録』
       昭和6年2月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古來、この棚倉野に鎭座した

   【祭祀対象】
   【祭祀】近世天満宮と称呼された
   【facebook】 棚倉孫神社
   【社殿】本殿切妻造
       拝殿・南北参集殿・絵馬舎・神饌所・社務所

   【境内社】八柱神社(祭神天照皇大神外七柱)・金比羅神社(金山比古命・金山比売命)

甘南備山の裾に当たる小高い丘の上に東面して鎮座している。広い森が周辺の地から見上げられる。
木津川の西の大和への入り口の要害地に当たる。 クス、カシの大きい木が目立つ。
現棚倉孫神社以外に有力な異説はない。
三代実録・貞観元(859)年正月27日條に、それまで從五位下であつた当社が、同郡樺井月読神と共に從五位上の神階に預つた。
棚倉とは穀物を収藏するに湿気を避ける爲、床を棚作りにした倉のことで農業、就中養蚕との関係を推測している。
この一帯が古代から棚倉野と呼ばれたことは疑いなく、その意味で棚倉孫神社は本來棚倉野の産土神として奉祀されていた。
近世この社が天満宮と称呼された事実が見えるから、棚倉孫神社の鎭座する棚倉野の社叢を、遅くとも江戸時代には天神ノ森と称した。
『山州名跡志』は天神社に比定している。


棚倉孫神社について

当社は天神の森に鎮座する。祭神は天香古山命(あめのかごやまのみこと)・別名 高倉下命(たかくらじのみこと)・手栗彦命(たなくりひこのみこと)ともいい、手栗彦が棚倉孫に転じたともいわれる。一説にはこの地は養蚕が盛んで棚倉とは蚕棚の小屋の意であり、養蚕に関係のある神ともいう。旧郷社。創祀の由緒は明らかでないが、「三代実録」貞観元年(西暦859)正月27日条に従五位上に叙せられた諸神の一に「棚倉孫神」があり、「延喜式内社」である。本殿は東面し、一間社・流造・桧皮葺。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鎮座地 棚倉

京都府下に棚倉と呼ばれる所が2カ所ある。ひとつは相楽郡山城町の旧棚倉村の地であり、もうひとつはこの鎮座地である。両方とも古代からある地名である。
山城町には天平20年(748)の真言宗大安寺資材帳にみえており、現在JR奈良線の駅名に残っているだけである。
【大阪外語大・国語学吉田金彦教授の古代地名を歩く(昭和60年8月4日、京都新聞連載)】による記事にはタナクラ(棚倉)ということばは、タ(田)ナ(助詞)クラ(谷、低所)ということで、田の低い所という意味である。
タ(田)は住むべき所、住むに格好な場という意味ではあるが、その田に、良い田と良くない田のふたつがあった。良い田はタノホ(田の秀)といって、それが今日いうタンボ(田圃)である。田は水稲作には低くなければ水利に不都合だが、低すぎても困る。少し高い田でなければならぬ。水利と水はけの良い田、それがタノホ、すなわちタンボである。
このような良い田、タンボに対して、天井川の被害を受ける低い田は、決して良い田とは言えない。
現代のような圃(ほ)場整備のなかった古代では、低い谷も段々の棚状だったろうから、タナクラ(田の谷)は、穀物への連想とあいまって、棚倉という文字が採られるようになったのだろう。だから『棚倉』という文字面で、養蚕や米倉があったと見るのは、考え過ぎになる。
天井川の水害は古代人の苦悩であった。それでこの田辺にも天神の森を祭ることになったのであろう。タナクラは『田の谷』であると同時に『田の神の降臨地』をも意味するようになっている。
《棚倉野》は万葉集に、「手束弓(たずかゆみ)手にとりもちて、朝猟りに右は立たしぬ。棚倉の野。」(万葉集巻19-4257)と歌われている。
この歌は聖武天皇の久邇京(くにのみやこ)時代の歌だというから、続日木紀によると天平13年5月6日であり、河南の棚倉の野である。だから田辺での棚倉である。
田辺のこの辺が山の幸多い所だったことが分かる。

由緒書



瑞饋神輿(ずいきみこし)

棚倉孫神社と瑞饋神輿
京田辺市田辺棚倉49番地、
. 創祀年代は明らかでないが式内社で、日本三代実録の貞観元年(859)正月に従五位上に叙せられた諸神に「棚倉孫神」とみえる。
元禄元年(1688)には、淀城主石川憲之の崇敬を受け毎年御供料の寄進を得た。
現在の本殿は一間社流造で桃山時代の建物、祭神は天香語山命(高倉下命)である。
○瑞饋神輿
秋に牧穫される26種類ほどの野菜や穀類で飾られる神興で明治時代の中ごろから造られたという。昭和4年(1929)で中断していたが、昭和50年(1975)に一部の模型を製作、昭和53年に「瑞饋神輿保存会」結成。
同年10月田辺町指定文花財に指定され、以後は隔年で10月10日に製作、田辺区域内えお巡行する。
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

社頭掲示板



棚倉孫神社

「棚倉」とは穀物を収蔵するに当たり、湿気をさけるための床を設けた倉庫をいい、養蚕にも用いられた。筒城(綴喜)は古来から渡米人による養蚕の盛んな地域であり、その蚕は貴重で「天の虫」ともいわれ、蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが神社としての興りではないかとも考察されている。 境内には、本殿のほか、拝殿、絵馬殿、社務所、式場などの建物が並び、本殿手前右手にある石造燈篭は桃山時代の作である。 2年に1度の例祭では、秋の収穫を祝って約30種の穀物や野菜などで飾られた「ずいきみこし」がくりだされる。高さ3m、1.5m四方、重さ約1トン、屋根に赤ズイキ、鳥居に青ズイキ、壁に大豆、三度豆、玄米、小豆、頂上の鳳凰には南瓜や百日紅の花、他にも赤、青の唐辛子、赤なす、たかのつめ、菊の花など全部で30種類ほどの野菜や穀物、乾物が飾りつけられ、神々に五穀豊穣を祈願する。天香古山命(あまのかごやまのみこと)を祭神とする旧天神ノ森の産土神で、元は天神社または天満宮とも称していたが、明治になって式内棚倉孫神社と改めた。 本殿は、一間社流造り桧皮葺であり、桃山時代の建築である。拝殿は入母屋造りで、前後に軒唐破風を設けた桧皮葺の江戸時代中期を代表する建築である。 社務所は元の神宮司であった旧松寿院で、現存する江戸末期の貴重な建物である。その他本殿の右側にある四角形石灯籠は天正2年(1574年)刻銘があり、桃山時代の傑作である。絵馬舎には白川芝山筆の「猛虎図」のほか絵馬十数面を掲げている。境内全域はクスノキやシイの常緑広葉樹が繁茂しており、文化財環境保全地区となっている。

京田辺市観光協会



棚倉孫神社

御祭神は、大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古(すいこ)天皇31年(623年)9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとある。別名を天香古山命(あめのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも申しあげ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の曾孫(ひこ)で、天神(あまつかみ)の直系である。
『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨(てんそんこうりん)に父命(饒速日命)と共に降り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功をたてられたとある。
『日本三代実録』の清和(せいわ)天皇、貞観元年(859年)正月27日に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位上の神位を賜った。 ○畿内七道は大宝律令で大宝元年(701年)制定。
 ・山城国・大和国・河内国・摂津国・和泉国(京都付近の五か国)
 ・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道
延喜式内の棚倉孫神社 旧社格は郷社(昭和6年2月に列せられる)
延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に掲載されている神社であり、創建が延喜以前であることがわかる。

京都府神社庁



棚倉孫神社

棚倉孫神社由緒 【御祭神】大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古天皇31年(623年)9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとあります。別名を天香古山命また手栗彦命とも申し上げ、天照大御神の曾孫(ひこ)で天神の直系です。
『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨に父命(饒速日命)とともに降り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉って大功をたてられました。
【1158年前】に諸神進階の一に『棚倉孫神』があり『日本三代実録』の清和天皇、貞観元年(859年)正月27日に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に『棚倉孫神』が従五位下から従五位上の神位を賜る。
畿内七道は大宝律令で大宝元年(701年)制定
山城国、大和国、河内国、摂津国、和泉国、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
【延喜式内の棚倉孫神社】旧社格は郷社(昭和6年2月に列せられる)延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に載せられている神社です。創建が延喜以前のものであることがわかります。

公式facebook



棚倉孫神社と瑞饋神輿

天香古山命(別名高倉下命・手栗彦命)をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。『日本三代実録』の貞観元年(859)正月従五位上に叙せられた諸神に『棚倉孫神』と記されている。 現在の本殿(京都府登録文化財)は桃山時代の再建で、一間社流造、屋根は桧皮葺である。本殿脇に天正二年(1754)の銘をもつ石灯籠がある。
元禄15年(1702)には、淀藩主石川憲之から、石鳥居・石段・石橋の奉納があり、毎年御供料の寄進を得た。広い境内には拝殿、絵馬殿、宮寺(現社務所)など江戸時代の建物がよく残り、絵馬殿には多くの絵馬が掲げられている。
瑞饋神輿ずいきみこし(京田辺市指定文化財)
秋に収穫される26種類ほどの野菜や穀類で飾られる神輿で、屋根は瑞き(サトイモの葉柄)で葺かれる。明治時代の中頃から造られるようになった。昭和4年(1929)で中断してたが、昭和50年(1975)に一部の模型を製作、昭和53年に「瑞饋神輿保存会」結成、以後は隔年で製作、10月体育の日に田辺区域内を巡行する。
例祭 10月15日
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

社頭掲示板



棚倉孫神社 大月次新嘗

棚倉は多奈久良と訓べし、萬葉集十九、手束弓手爾取持而朝狩爾君者立去奴多奈久良能野爾古久邇京都時歌」孫は比古と訓べし、和名鈔(親成部)孫、(比古)○祭神明か也○田邊村に在す、今天満宮と称す、山城志
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國從五位下棚倉孫神從五位上、

神社覈録



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