薪神社
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   【延喜式神名帳】内神社二座 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】薪神社
   【住所】京都府京田辺市薪里ノ内1
       北緯34度49分16秒,東経135度45分19秒
   【祭神】天津彦根命
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創建等の由緒不明。同地区にあった八幡宮を天神社に併合して薪神社となる
   【関係氏族】
   【鎮座地】この地は天神社の鎮座地であった

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿 一間社流造・寛政6年(1794)の造営・割拝殿
   【境内社】八幡宮・住吉社・武内神社・金刀比羅宮

一休寺奥。集落の奥の山裾の神社。
式内社調査報告に記載なく、論社としても不詳。
明治41年天神社(鎮座地は現薪神社)と八幡神社(鎮座は南東150mの地・社殿跡は原形を保っているという)とを合祀して成立。
今の薪社(元の天神社)境内に光通寺釈迦堂、経蔵、観音堂があったという。
明治初年の神仏分離令で光通寺は廃される。現状薪神社に佛教関係を偲ぶものは皆無。
なお本殿北側は元観音山と呼ばれ、観音堂があったが明治初年に廃され、山は削平され、現在は児童公園になっている。
能楽の発祥の地といわれている。この付近で金春禅竹(こんぱるぜんちく)が一休禅師に猿楽の能を演じたと伝えられている。
境内に甘南備山頂にあった石で、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。何故、当社へ運ばれたのか不明、大住の月読神社の元社であったのかも知れない。


薪神社

本殿に残された棟札によると、薪神社の星野天神・住吉・武氏の三社は、天正年間(1573-92年)に再興された。寛永6(1629)年には、薪村と大住村の山論を板文にして奉納。明暦元(1655)年、薪村八幡宮・天満宮の縁起と宮座の定めをあらため、寛政6(1794)年に神社を造営、明治40(1907)年、天神社と八幡社を合祀して、薪神社とした。境内には、もともと甘南備山頂にあり、月読神が仮の姿をとって現れたと伝わる石も祀られている。また、『能楽発祥の碑』と刻まれた石碑も建てられている。

京田辺市観光協会



薪神社

明治40年(1907)、この地にあった天神社と天神社の南東150mにあった八幡神社を合祀し、薪神社とした。
このためそれぞれの祭神であった天津彦根命(天照大神の子)と応神天皇を祭神としている。
現在の本殿は東に面する一間社流造の建物で、屋根は銅板葺である。
拝殿の南東側には、かって甘南備山山頂にあり、月読命が寄り付いたと伝えられる影向石がある。
天神社には神宮寺として光通寺があったが、明治初めの神仏分離令により廃寺となり、十一面観音像などの仏像等は近くの西光寺に移された。
末社 武内神社・住吉神社・金毘羅神社・猿田彦神社・くさ神
例祭 10月15日
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会

社頭掲示板



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