内臣の居住地に内臣およびその祖を奉祀する内神社が建立された。 中近世域降は、現在の内里集落が定着してゆく中で、その鎭守となつていつた。 中世は春日宗像社と呼ばれていた。 内里集落の西端に明らかにそれとわかる社叢を有する。平地。水の豊かな神社。門前に野菜の洗い場が有り水音高い。 現鎭座地は天正似降のもので以前の旧社地は現在も古宮と称している(当社の南東約700m付近)。 内神社の鎭座地(「古宮」も含めて)は、ある意味で異常な場所にある。綴喜郡の式内社は、木津川の水害をうけない山頂か山沿いの小高い場所にある。内神社のみが何故水田の稻穂の中に鎭座しているのか。内里集落が木津川氾濫の危険地帯であつたことに変りはない。 内里を中心とする有智郷地区や田辺町の大住地区は、奈良時代前期に南九州で゛征服゛されたその隼人たちが移住させられた地域である。彼らは、天皇や皇族の近習として、また警固役として朝廷に仕えていた。 大隅隼人の故郷と考えられる鹿児島県姶良郡隼人町には「ウチ」がつく地名が多く、その移住先として同じ「オオスミ」や「ウチサト」の音をもつこれらの地域は、彼らの居住地であった。 2001に訪問したときの本殿が2005年に訪問したときには新しいものに立て変わっていた。旧本殿は新本殿脇に移転して保存されている |
内神社 祭神 味師内宿根 旧村名内里と称するは山城内臣の居住たりしをもって味師内宿根を祭神とする。 往古は内里の巽の方700m隔てた地に在しが天永の乱社殿類焼せしにより天正年間現在の地に移せり云々。 旧社地を今尚古宮と云う。 社頭掲示板 |
内神社 平成13年から2年間に亘り行われた「内神社造営事業」の際、現本殿の鎮座地よりこの地に移築保存された。 建立年代は海老紅梁の伸びやかさや、蟇股の肩の盛り上がり、また足の伸び等から江戸中期の建築物と伝えられてはきたか、この度の造営事業の折に行われた調査で、外陣右側腰板から、寛保3年(1743)の墨書銘が発見されたことにより、ある程度の建築年代の特定がなされた。 京都府登録有形文化財 昭和58年指定 一間社流造 銅板葺 屋根=幅4.7m 奥行6.3m 平成16年 秋 八幡市郷土史会 社頭掲示板 |
内神社二座 内は宇知と訓べし、和名鈔(郡名部)有智、○祭神内臣祖○内里村に在す、今春日宗像両社と称す、○日本紀、雄略天皇17年3月、山背国内村、○古事記(孝元段)比古布都押之信命娶葛城之高千那毘売、生子味師内宿根、此者山代内臣之祖也、 類社 出雲國秋鹿郡内神社、大和國宇智郡宇智神社、 神社覈録 |