山腹の社。社域は広く、社叢多い。欽明天皇の御代、東嶽に降臨し、天平3(731)橘諸兄によって当地に遷座。 当社には鎌倉期似降の貴重な古文書がかなりの量で所藏されており、その中には中世社会経済史上、あるいは中世文化史上極めて重要なものも含まれている。京都大学国史研究室に“高神社文書"の目録が作成されており至便である。 中世の高神社は多賀郷三村、東村・谷村・久保村の鎭守・惣社であった。 鎮守の森は、京都百景の一つになっている。現在でも『万葉集』でも歌われた社叢を満喫できる。 巻3 277 高市連黒人覊旅歌 早来ても 見てましものを 山背の 高の槻群 散りにけるかも |
高神社の由来 元郷社 式内社高神社 当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見守るように建てられています。 創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。 聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました。 元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦885年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。この間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正一位勳一等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈雨神社」「聖神社」であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
【文化財】 本殿 三間 流造り 京都府指定文化財 鎮守の森 「京都府の自然200選」の「歴史環境部門」に指定 獅子頭 鎌倉時代の物と推定される 京都府登録文化財 高神社文書 鎌倉〜江戸時代 京都府指定文化財 |
高神社 鍬靫 高は太可と訓べし、和名鈔、(郡名部)多河、○祭神詳ならず○多賀村に在す、今天王と称す、 類社 伊勢国度會郡高宮、(大月次新嘗) 神社覈録 |
郷社 高神社 本社は、和銅4年の創建にして、延喜式内綴喜郡高神社とある是なり、然るに中古誤つて高神社大梵天王と 唱へ来りしが、後慶応年間に旧称に復せり、神社覈録に、「祭神詳ならず云々」と見え、又神祇志料に「今多賀村にあり、梵天宮といふ、醍醐天皇廷喜の制、祈年祭に鍬靭を奉る(延喜式)」とあり、神名帳考証によれば、祭神は高魂命なるが如し、然るに名跡志に「延喜式高神社は、多賀村の産沙にて、今大梵王と額を打つ」とあれば祭神は今の社記を正しとなすべきか、山城志に「多賀天王、其瑞離内外、有小詞二十、前山中有瀑五丈許、名龍王瀧、流繞社前曰御手濯川、入木津川、此地高燥、衆山聳東、下臨泉川、遠望則、甘南備八幡山崎淀城伏見、瞭然在一目中、祝氏家蔵文永9年9月神社流記、永正6年遷宮記、大永3年方堅祭式等」とあり、而して現今の社殿は、慶長9年9月再建せしものなり、明治6年8月郷社に列し、同10年6月式内神社に決定す。 社殿は本殿、前拝、拝殿、舞殿等を具備し、境内1773坪(民有地第二種)あり。 明治神社志料 |