高神社
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   【延喜式神名帳】高神社 鍬靫 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】高神社
   【住所】京都府綴喜郡井手町多賀天王山1
       北緯34度49分1秒,東経135度48分50秒
   【祭神】伊弉册命 菊理姫命 伊弉諾命
       祭神詳ならず『神社覈録』
       中央高御産日神・相殿左伊弉諾尊・右素戔鳥尊『高神社本源記』
       伊弉諾命・伊弉冊命・菊理姫命『神社明細書』『高神社概要』

   【例祭】10月16日 例大祭 毎月1日 月次祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】欽明天皇の元年、東嶽に降臨
       和銅4年(711)多賀明神之社として奉祀
       天平3(731)年,橘諸兄が詔を奉つてこれを高村に遷座した
       天平3年(731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」とする
       元慶2年(867)8月14日に龍神祭の争論で死者三郷社を一社に合祀することによって和睦
       昌秦元年(888)8月3社社殿完成「高神社」と称される
       治承4年(1180)5月宇治川合戦(源平の合戦)の際、平家軍により本殿炎上
       文永9年(1272)社殿改築の際散樂能
       文治2年(1186)8月社殿再建
       承久3年(1221)大乱の際に神託あり高神社を多賀神社と改める
       寛元3年(1245)正一位
       建武元年(1334)深栖判官の乱暴狼藉により社殿炎上
       応永11年(1504)造営
       永正5年(1508)造営
       永禄・元亀年間(1558−72)織田信長の天下統一の際の兵乱により神殿大破
       慶長9年(1604)現在の社殿建立
       明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」となる
       明治6年(1873)8月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来鎮座地を変更せず

   【祭祀対象】
   【祭祀】永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来た
   【社殿】本殿流造
       拝殿・拝所・舞殿・絵馬殿・社務所

   【境内社】太神宮(祭神天照大御神)・稻荷神社(宇賀乃御魂神)・粟島神社(粟島神)
        春日神社(春日大神)・八王寺神社(祭神不詳、以下これに同じ)
        恵比須神社・愛宕神社・聖神社・伏拝八幡宮・若宮八旙宮
        一ノ御前神社・祈雨神社・誉田神社

   【別当】明治初年の神仏分離令により真言宗の毘沙門寺が廃寺となった。現在忠魂碑があるあたりに存在したとされる。

山腹の社。社域は広く、社叢多い。欽明天皇の御代、東嶽に降臨し、天平3(731)橘諸兄によって当地に遷座。
当社には鎌倉期似降の貴重な古文書がかなりの量で所藏されており、その中には中世社会経済史上、あるいは中世文化史上極めて重要なものも含まれている。京都大学国史研究室に“高神社文書"の目録が作成されており至便である。
中世の高神社は多賀郷三村、東村・谷村・久保村の鎭守・惣社であった。
鎮守の森は、京都百景の一つになっている。現在でも『万葉集』でも歌われた社叢を満喫できる。
巻3 277 高市連黒人覊旅歌
早来ても 見てましものを 山背の 高の槻群 散りにけるかも


高神社の由来

元郷社 式内社高神社
当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を見守るように建てられています。
創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)東嶽に御神霊の御降臨により社宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展に伴い、元明天皇の和銅4年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726年)字綾の木に谷村宮が、それぞれ建立されました。
聖武天皇の天平3年(西暦731年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多賀村」を「高村」と名称が変更されました。
元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神祭の時に死者の出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元年(西暦885年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになりました。この間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されています。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正一位勳一等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制度の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿のご祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社名は「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天皇」「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈雨神社」「聖神社」であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



【文化財】

本殿   三間 流造り 京都府指定文化財
鎮守の森 「京都府の自然200選」の「歴史環境部門」に指定
獅子頭  鎌倉時代の物と推定される 京都府登録文化財
高神社文書 鎌倉〜江戸時代 京都府指定文化財


高神社 鍬靫

高は太可と訓べし、和名鈔、(郡名部)多河、○祭神詳ならず○多賀村に在す、今天王と称す、
類社
伊勢国度會郡高宮、(大月次新嘗)

神社覈録



郷社 高神社

本社は、和銅4年の創建にして、延喜式内綴喜郡高神社とある是なり、然るに中古誤つて高神社大梵天王と 唱へ来りしが、後慶応年間に旧称に復せり、神社覈録に、「祭神詳ならず云々」と見え、又神祇志料に「今多賀村にあり、梵天宮といふ、醍醐天皇廷喜の制、祈年祭に鍬靭を奉る(延喜式)」とあり、神名帳考証によれば、祭神は高魂命なるが如し、然るに名跡志に「延喜式高神社は、多賀村の産沙にて、今大梵王と額を打つ」とあれば祭神は今の社記を正しとなすべきか、山城志に「多賀天王、其瑞離内外、有小詞二十、前山中有瀑五丈許、名龍王瀧、流繞社前曰御手濯川、入木津川、此地高燥、衆山聳東、下臨泉川、遠望則、甘南備八幡山崎淀城伏見、瞭然在一目中、祝氏家蔵文永9年9月神社流記、永正6年遷宮記、大永3年方堅祭式等」とあり、而して現今の社殿は、慶長9年9月再建せしものなり、明治6年8月郷社に列し、同10年6月式内神社に決定す。
社殿は本殿、前拝、拝殿、舞殿等を具備し、境内1773坪(民有地第二種)あり。

明治神社志料






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