平地。小学校の隣。この神社は88才になると升と升切り棒を奉納する習慣有り。 本社はもと宮ヶ森に鎭座し、当所外二部落の総社であったが、永享年間、洪水の爲め被害あり、各三部落に分離した。 |
咋岡神社 創祀年代は健治年間(1274-78)といわれ、応仁年間(1467-1469)、永和年間(1504-1521(に戦火で焼失したが、天文3年(1534)8月に再建されたと伝える。古くは天神社と称したが、明治26年(1893)咋岡神社と社名を改めるとともに、それまでの主神菅原道真を配神とし、倉稲魂神を主神とした。 本殿は春日造、正面軒唐破風付、桧皮葺で、蟇股、木鼻等に桃山風の華麗な彫刻をほどこしており、江戸中期頃の建立と思われる。 この神社地は、もと草路城といわれ、周囲に濠をめぐらし土塁の跡が周囲の森林の中に残る。山城一揆に草路城として登場する。昭和58年(1983)、京都府文化財環境保全地区に決定され、平成3年(1991)には、京都自然200選にも選ばれている。 京田辺市教育委員会 京田辺市文化財保護委員会 社頭掲示板 |
咋岡神社 本殿は春日造。春日造の形式は、中世に奈良興福寺の領地であった場合が多い。 本殿は正面に軒唐破風(のきからはふ)をつけ、各所に蟇股(かえるまた)や虹梁(こうりょう)絵様を配して配色するなど装飾が多く、その細部様式からすると、江戸時代中期の建立と思われ、京都府の登録文化財に指定されている。また、境内には江戸時代初期に建てられたと思われる末社若宮八幡宮がある。 境内裏手にある奥深い林は、山城国一揆の舞台となった草路城跡で、土塁や堀も残っている。府の「文化財環境保全地区」に指定されている。 京田辺市観光協会 |
咋岡神社 鍬靭 咋岡は久比哀加と訓べし○祭神詳ならず。草内村に在す、今天神と称す、(山城志) 類聚國史、天長10年10月辛卯、勅、山城国綴喜郡区毘岳一処、為圓提寺地、○山城志云、在草内村隣于昨岡 神社覈録 |