咋岡神社(飯岡)
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   【延喜式神名帳】咋岡神社 鍬靫 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】咋岡神社
   【住所】京都府京田辺市飯岡東原62
       北緯34度48分17秒,東経135度47分49秒
   【祭神】宇賀乃御魂神 (配祀)菅原道真
       江戸時代には菅原道真公を祭神としていた
       祭神不詳『神社覈録』
       宇賀乃御魂神『神社明細書』
       宇賀魂神『特選神名牒』

       当初の祭神は宇賀乃御魂神であったと思われる。

   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】明治6年村社
       慶長6年(1601)造営
       元和3年(1617)造営
       寛永13年(1636)造営
       元禄8年(1695)木津川の氾濫によりこの地に移されたともいう
       明治8年村社
       明治26年10月本社旧記を発見し、式内咋岡神社とする

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは飯岡の北境、宮ケ森に鎮座
        永享年間、洪水の爲め被害あり、この地に遷
        元禄8年(1695)木津川の氾濫によりこの地に移されたともいう

   【祭祀対象】
   【祭祀】天神社と称し菅原道眞を祭っていた。
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所

   【境内社】皇太神宮(祭神天照大神)・八幡宮(品陀和気命)・権殿嚴島神社(市杵島姫命)

木津川の土手の上にあり。山腹の小社。升の額の奉納多い(米寿の祝い?)。元は飯岡の北境、宮ケ森に鎮座。
咋岡神社の近辺には飯岡古墳群があり、東側を北流する木津川には飯岡の渡し跡、すぐ南西の池畔には古代の山本駅跡が存在し、古来より交通の要衝として重きをなした地点であつた。
一説として本社は元当字の北境宮ヶ森に鎭座し、当所外二部落の総社であったが、永享年間、洪水の爲め被害あり、各三部落に分離した際に、当社は其の宮元であるので、尊像稻倉魂神を奉迎し、現今の地に、勧請奉祀したもの。
普賢寺川の北側、木津川との合流点近くに“草内宮ノ森”との地名があり、この辺りが旧地と思われる。
江戸時代に於ては菅原道真公を祭神としていた。


咋岡神社

宇賀乃御魂神(ウガノミタマ)と菅原道真をまつり、天神あるいは天神宮と呼ばれていたが、明治8年、式内社・咋岡神社として認定された。
木津川の氾濫により、江戸中期の元禄8年(1695)に現在地に移され、その際に菅原道真が新に祭神に加えられ整備されたことが、文書と石燈籠銘文から判明する。
元の位置は、飯岡の北端で木津川と普賢寺川の合流点の箇所であったと口伝されている

京田辺市観光協会

咋岡神社

建築年代など不詳。記録によれば、中世に天満宮と称した時期もあったが、明治6(1873)年村社となり、明治10(1877)年に延喜式内咋岡神社と決定、今の社名にあらためたという。境内の巨木・スダジイは、平成3(1991)年に「京都の自然200選」に指定された。 萬葉歌碑 「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり」 柿本人麻呂 訳)春草を馬が食う 馬咋山を通って 越えて来るらしい   雁の使いは 何の便りも無く 旅の宿りを過ぎていくことだ
京田辺市観光協会

社頭掲示板



咋岡神社

京田辺市飯岡東原62番地
宇賀乃御魂神と菅原道真をまつり天神あるいは天神宮と呼ばれていたが、明治8年(1875)式内社咋岡神社として認定された。
木津川の氾濫により、江戸時代中期の元禄8年(1695)に現在地に移され、その際に菅原道真が新たに祭神に加えられ整備されたことが文書と石灯寵銘文から判明する。元の位置は飯岡の北端で木津川と普賢寺川の合流点の箇所であったと口伝されている。
現在の本殿は、東に面した一間社流造の建物で、屋根は銅板葺である。移設後明治年間に至るまで数度の改修が行われたとみられ、当初の建築様式を留めていないが、慶長6年(1601)、元和3年(1617)、寛永13年(1636)などの棟札が残され、その経年の歴史が判明する。
祭神の宇賀乃御魂神は稲魂・稲倉魂・宇迦御魂とも表現され、稲を司る神で古代からの神である。
京都の自然二〇〇選にも選定されたスダジイをはじめ、シイなどの巨木が多く、良好な鎮守の森の景観を保っている。
例 祭 10月15日 前日には百味寄せが行われる
茅の輪 6月30日・12月31日
    京 田 辺 市 教 育 委 員 会
    京田辺市文化財保護委員会

社頭掲示板





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