松尾神社
まつおじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】月読神社(大 月次/新甞) 山城国 綴喜郡鎮座

   【現社名】松尾神社
   【住所】京都府木津川市山城町椿井
       北緯34度45分35秒,東経135度49分14秒
   【祭神】月讀尊
   【例祭】10月17日 神嘗祭 11月23日 新嘗祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】御霊神社

明治神社志料は「社記に拠れば、延喜式に月読神社は当社なりと云へり、されど月読神社は綴喜郡に属し大住村に在り。」としている。


由緒

当神社は松尾神社と摂社御霊神社、その他末社を境内に奉齋していて例祭は10月17日である(合社以前は下の宮御霊神社は10月16日例祭)松尾神社は古来下の宮御霊神社に対し上の宮と呼ばれ、上狛、林、椿井郷の鎮守の社として栄え祭神は月読之尊で旧郷社であった。社伝によれば通称樺井ノ社と呼ばれ天平勝宝年間(749−57)創建されたと伝えられ嘉吉元年(1441)の興福寺官務牒疎の記ろくによれば「樺井松尾ノ神在同郡同郷土産神、神供僧五人、神人七人、文武帝大宝元年降臨、秦都理勧請也とある。本殿は一間社春日造り桧皮葺で奈良春日若宮社の古殿を文化5年(1808)拝受したとの文献があり、昭和25年(1950)拝所を含め国の重要文化財の指定を受けている。御霊神社は下ノ宮と古来より称し松尾神社の下椿井南端の御霊山に鎮座されていたものを明治13年(1880)内務省の「神社の統廃合令」にもとづき歴史的に一体の神社として此処に遷されたものである。祭神は素盞男尊で(三兄弟、又三貴神、天照大神、月読之尊、素盞男尊)である。本殿は、奈良春日大社の旧殿をそっくり拝受したもので春日神社御造営古物支配之記に「三ノ御殿、山城狛村に遺す金物並に御御道具添え金四拾両・・・」云々の記ろくがあり、又本殿内陣には、御神体、守護の木造牛頭天王半跏像等四体があり(藤原時代作目下山城資料館あづけ)当社が如何に立派で古い社であるかがうかがい知れる。本殿並に古来からの松尾神社の拝殿(慶長12年(1607)棟木に墨書)楼門(拝殿と同期)を昭和58年京都府の重要文化財に又神域一体を自然環境保全地区に指定されたそもそも当社の祭司は室町時代より近世にかけて、地侍、名主の有力者によって受け継がれ、又、宮座も同様で、中老座、白老座が祭事、運営に奉仕し、祭日、その他座の行事には年何回か神社近くの宮塔衆(真言衆角之坊)や宗家衆、さらに講衆(真言の蛇羅尼経を唱える信徒)又、神童寺、和束鷲峰山金胎寺の僧を招待して客席を設け盛大な直会の宴を催した(承応3年(1653))古い絵画が残されている。特に驚くべき事は下ノ宮御霊神社では境内に能舞台をつくり「神能」を捧げた図が残されている。こうした祭典、神事には和束天満宮より遠路御輿が参加してきていることである。しかし時代の推移と共に今ではこの盛時を偲ぶのみである。狛弁才天社(市杵島姫神社)は弁天山に鎮座し、祭人は弁才天(市杵島姫之命)西隣りには臨済宗妙心寺羽玉台寺がある。永享9年(1437)狛一族の守護神として狛但馬守頼久が造営、なお寛正3年(1462)狛山城守秀盛が整備完成(狛家系譜より)狛氏は昔狛野庄荘官であり、特に奈良興福寺の高僧と親交があった。寛正3年拝殿完工祭伽銭百疋献上、文明2年一乗院弁才天へ参詣。天正16年長善房参詣。同年瞬善房参詣、同年18年深円房参詣、同年19年長善房参詣。天正8年(1480)拝殿修復、正保4年(1647)狛次郎左衛門佐昌網を始め一族の野村文右衛門のほか小林有兵、井上十太夫、本城友甫、その他の百姓大勢で整備完工された。(小林家文章による)本殿前に弘治2年(1556)の銘をもつ石燈篭あり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




松尾神社

天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山咋神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消した後に残された宝珠をこの地の後の鎮めとした。
のち大宝元年(701)に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまりと伝える。
近世以前は、御霊神社が「下の宮」と呼ばれたのに対して、「上の宮」と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。
拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長15年(1610)に再建されたことともに、有力農民の代表である「十二番頭」や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老、松尾社、御霊社の神主などの名が記されている。
また、宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司、公文、卜木の席や、有力名主によって構成されていた中老座、ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽屋、はしがかりなどが描かれていて、これらから、中世の村政をつかさどった組織と松尾神社とのかかわりがうかがえる。
なお、表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。
本殿は文化5年(1808)に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を文政6年(1823)に「下の宮」に移築し、さらに明治13年に神社併合により、ここに移築されたものである。
中世村落における神社の面影をとどめる建物群である。

社頭掲示板



由緒

当神社は松尾神社と摂社御霊神社、その他末社数社を境内に奉斎している。
例祭は毎年10月17日である。
松尾神社は古来下ノ宮の御霊神社に対し上ノ宮と呼ばれ、上狛、林、椿井郷の鎮守の社として栄え祭神は月読之尊であり、旧郷社であった。
社殿によれば通称椿井ノ社と呼ばれ天平勝宝年間(749 - 757)創建されたと伝えられ嘉吉元年(1441)の興福寺官房務諜疎の記録によれば「椿井松尾神社同郡同郷土産神神供僧五人神人七人文武帝大宝元年降臨秦部理勧請也」とある。
本殿は一間社春日造り桧皮葺で奈良春日若宮社の古殿を文化5年(1808)拝受したとの文献があり大正2年(1913)に国の重要文化財の指定を受けている。
御霊神社は下ノ宮と称し椿井郷南端の小高い御霊山に鎮座されていたものを明治13年(1880)内務省の神社の統合令によって此処に遷され現在に至っている。
祭神は素戔嗚之尊で旧村社であった本殿は奈良春日大社の旧殿を拝受したもので春日神社御造営物支配之記に「三の御殿山城狛村に遺す金物並に御道具添え金四拾両・・云々とあり両社とも春日神社とは深いつながりがあったのである。
又藤原時代の木造牛頭天王半跏像等四体の神像も存し昭和58年には本殿並に拝殿楼門は京都府の登録文化財に神域一帯は自然環境保全地区に指定されている。
古来当社の神主は室町期より近世にかけて地侍、名主によって受け継がれ又宮座には中老座と白老座があって祭事の運営にあづかりなお招待には宮塔衆(真言宗角之坊)や宮家衆たらり講衆(真言の蛇羅尼経を唱える信徒)神童寺鷲峯山金胎寺等の僧の客分の席が設けられ祭日には和束天満宮より神輿の渡幸もあったと記されているが今ではその威事をひそかに偲ぶのみである。
昭和62年2月吉日
松尾神社宮司 松岡秋夫 記

社頭石碑



郷社 松尾神社

祭神 月読命
本社は、天武天皇白鳳3年の出現にして、文武天皇大宝元年の創建に係ると、社記に拠れば、延喜式に月読神社は当社なりと云へり、されど月読神社は綴喜郡に属し大住村に在り。御霊と称す(山城志)神社覈録に三代実録貞観元年正月27日甲申、奉授山城国從五位下樺井月続神従五位上、按ずるに樺井の二字削るべし、樺井月読神は同日奉授並五位下と前文に見えたり」と記せり、今社記に從ふ、而して伏見天皇弘安3年正五位上に加階せられ給ひ、正親町天皇永緑10年8月社殿炎上せしを、翌年3月再建す、明治6年6月郷社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿等を具備せり、神体は御玉、御劒なり、境内2027坪(官有地第一種)、土地高燥にして樹林鬱蒼として茂り、西南の眺望尤も佳し。

明治神社志料



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