木津川堤防の真下にある。叢林深く良くめだつ。 室城は室樹のことで、古代豪族の榎室連の祖を祀つた社である。 聖武天皇の御代悪疫流行、その退散を当社に祈願、弓矢を献奉した。これが今も春祭に弓矢をかたどった特種神饌(矢形餅)が供献される形で続いている。 久世郡水主村(現在城陽市水主)に住んでいた古麻呂の家の門前に榎の大樹があり、雨も漏らさない室のようであつたために、聖徳太子が当主の古麻呂に榎室連という姓を授けたという。 現在水主に鎭座する式内社水主神社の境外摂社として扱われている。 本社境内に明治初年迄護国山神宮寺という宮寺があつた |
室城神社の由緒 口碑によれば、今を去る約1250年昔の聖武天皇の神亀年間、近国に大洪水あり。 民飢え、勅して天神地祇をこの地に奉祀せしめ給うた。同天皇の御世、悪疫流行あり 。当社にその退散を御祈願、弓矢を御献奉あらせられた。今に伝わる当社の春祭は、 この勅願が起源といわれ、弓矢を像った特殊神饌が供献される。その後、南北朝の兵 戦により神事は一時中断した。 また今から約350年以前の寛永七年、木津川の堤切れにより、当社の壮大な社殿は 諸記録と共に流出した。その後再建された社殿は、規模が縮小され、今なお仮殿であるといい伝えられている。 明治6年村社に列格、同10年延喜式内社(今を去ること1074年昔の延喜五年の勅命により編纂去れた。延喜式に神社名が記載され、当時官幣または国幣にあずかった神社)と決定された。昭和28年、神社本庁包括の宗教法人となる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
室城神社 木津川右岸堤防に沿って細長く伸びた下津屋集落の東寄りに室城神社が鎮座しています。津屋の森と呼ばれる1100坪余りの広い境内は、たえず小鳥のさえずりが聞こえ年間を通じて鳥の楽園になっています。 室城神社は、「久世郡祭神記」(京都府教育会久世郡部会編)によると聖武天皇の時代に近国に大洪水があり民衆が飢えていたとき、勅して天神地祇をこの地に祀ったのが始まりとされています。名前の由来を調べると「神社要録」に室城とは室樹のことをいい、当社はこの地区を開拓した豪族のえむろのむらじ榎室連の祖を祀った神社であろうとしています。また下津屋は古くから木津川の舟運の津として発達した集落と考えられることから、津を守護する(住吉神社)を祀ったものと考えられます。 久御山町HP |
室城神社 当社は、聖武天皇の神亀年間(724−29)、近国に大洪水があり、民衆が飢えていた時、勅して天神地祇をこの地に奉祀したのが始まりとされる。 また同天皇の御代、悪疫流行に際して、当社に弓矢を献奉して、その退散を祈願された。今に伝わる春祭(矢形餅神事)の起源とされ、神事では弓矢を象った特殊神饌が供献される。 また、寛永7年(1630)、木津川の堤切れにより、当社の壮大な社殿は諸記録と共に流出した。その後再建された社殿は規模が縮小され、今なお仮殿であると伝えられている 当社は境内に護国山神宮寺と称する宮寺を有していたが、明治維新に際し除かれた。 社頭掲示板 |
室城神社 室城は牟呂岐と読り○祭神詳ならず○白川村に在す、今白山神社と称す、(山城志) 比保古云、姓氏録曰、榎室連者、火明命十七世孫呉足尼之後也、山猪子連等仕奉上宮豊聰耳皇太子御杖代、爾時太子巡行山城國、于時古麻呂家在山城國久世郡水主村、其門有大榎樹、太子曰、是樹如室大雨不漏、仍賜榎室連、按室城者室樹也、(考証亦同)猶考ふべし、 神社覈録 |