巨椋神社
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   【延喜式神名帳】巨椋神社 山城国 久世郡鎮座

   【現社名】巨椋神社
   【住所】京都府宇治市小倉町寺内31
       北緯34度53分53秒,東経135度47分5秒
   【祭神】武甕槌神 経津主神 天児屋根神 比盗_
       本来は巨椋氏の氏祖を祀

   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】巨椋池のほとりに住んでいた巨椋氏一族がその祖神を祀つた
       嵯峨天皇の勅命により創建されたともいう
       次第に藤原氏の影響をうけるようになつた
       明治6年村社
       明治10年式内社と認定

   【関係氏族】巨椋一族
   【鎮座地】社伝では小倉町春日森に元来あつたが、洪水のために現地ヘ移した(移転年月は不詳)
        18世紀中葉にも現地にあつた

   【祭祀対象】巨椋一族の祖神
   【祭祀】巨椋一族の祖神を祀つていた巨椋神社が、やがて春日社と通称され、祭神も藤原氏の祖神を祀るように変えられた
   【社殿】本殿 流造檜皮葺。この上に雨覆
       拝殿は割拝殿・本殿と拝殿の間は回廊で結ばれている
       社務所・手水舎

   【境内社】天満宮・勝手社・大国主社・八幡社・子守社

平地。街中。広い境内。子守神社としての名の方が高い。子守神社の由緒はあるが巨椋神社の由緒は発行されていない。
広い境内に巨大な椋が多数あるほか杉、椎、榎などある。
この社の近くには昭和16年に干拓を完了した広大な巨椋池が水を湛えていた。
「巨椋池」は、太古に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残である。洪積世第三期末から第四期にかけての激しい地盤の変動によって出来た凹地に水がたまったものである。
やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、この湖水はしだいに狭められ、最後に一番低いところが巨椋池として残った。
巨椋池のほとりに住んでいた巨椋氏一族がその祖神を祀つたのが創始。
巨椋氏は小椋氏のことで木地師の一族である。木地師集団が巨椋池の近くに住んでいたことは注目すべきことである。
次第に藤原氏の影響をうけるようになつたとみられ、巨椋社が藤原氏の支配下になつた時期に祭神も今みるような内容になつたものとおもわれる。
巨椋氏から藤原氏へ祭主が変容していつた時期は、平安後期に想定される。
鎮座地の変遷については2説あり、
1.社伝 古くは北方の現小倉町春日森(当社の北北東約200mほどに現存)にあったが、洪水(発生年次不明)のため、古くから子守神社があった現在地に移転した。
2.宇治市史 古くは現在地にあったが、春日神社の勧請によって北方の春日森に退去させられ小森明神と称したが、洪水により、旧地(現在地)に子守神社として復座した。


巨椋神社と子守神社の由来

巨椋神社は、人皇52代嵯峨天皇の勅依に依り、巨椋春日大神と勧請された。奉祭神 である武甕槌神、経津主神は、武勇の神で天照皇大神の大命を拝し、大国主命に諾命 を伝えて、この国を天孫に献らしめ給い、さらに諸国を巡り、服従せぬ者を討ち平ら げ、国土平定の大功をたてられた。すなわち我が国の将師の始祖として畏敬せられた 神々である。また天児屋根神は、天照皇大神に仕奉りて発祀の任務に当たられたが、 そのご大神の命により天孫のとき、邇々杵命に随従し朝政に大なる功績をたてられた 神で、我が国の宰相の始祖である。天児屋根神は藤原氏の祖神で、藤原氏は歴代多く の皇后となられて、皇室との関係は格別である。比・神は、天児屋根神の妃神で御神 徳の高き神である。
子守神社は、人皇55代文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王が子供愛護の大御心に よって建立された神社であります。そのいわれは、昔三疋の大鳥何方となく来り数多 のつつき、けとばし、なやましたので、帝がこの由を聞かれ惟喬(これたか)親王に 弓矢をもって諸国を廻り退治させられました。そのとき河内の渚の院にて大鳥を射殺 され帰途、その故をもって小倉村中の小路に子守大神を祭られたのが当社の創めであ りまして、御祭神は天磐樟船神であります。以来世にも稀な子供の守護神として、霊 験日に日にあらたかであります。また当社にお祭り遊ばされし子供守護尊像の由来は 、南山城小倉の里大椋の森に鎮まります子守大神と申し奉るは、人皇55代文徳天皇 の皇子惟喬(これたか)親王の奉祀し給う所にて、爾来年を経ること壱千有余年子供 のために祈誓なし、思頼をかがふるも洵にすくなからず、惟喬(これたか)親王の子 供を愛護し給う大御心により子守大神奉祀のときに御祭祀遊ばされし石像を摸し奉り 子供守護の尊像として祭る。殊に夜泣き・かん虫・病気のときは奇しき御霊験がある 。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




子守神社の由来

子守神社は人皇55代文徳天皇の皇子惟喬親王が子供愛護の大御心によつて建立された神社であります。
そのいわれは昔三疋の大鳥何方となく来り数多のつつき、けとばし、なやましたので、帝がこの由を聞かれ惟喬親王に弓矢を以て諸国を廻り退治させられました。その時河内の渚の院にて大鳥を射殺され帰途その故を以て小倉村中の小路に子守大神を祀られたのが当社の創めでありまして、御祭神は天磐樟船神であります。
以来世にも稀な子供の守護神として霊験日に日にあらたかであります。
子供守護尊像の由来
南山城小倉の里大椋の森に鎮ります子守大神と申し奉るは、人皇55代文徳天皇の皇子惟喬親王の奉祀し給ふ所にて、爾来年を経ること壱千有余年子供の為に祈誓なし、思頼を蒙るも洵に少からず、惟喬親王の子供を愛護し給ふ大御心により子守大神奉祀のときに御祭祀遊ばされし石像を摸し奉り子供守護の尊像として祭る。殊に夜泣・かん虫・病気の時は奇しき御霊験がある。
宇治市小倉町寺内三一   子守神社々務所

由緒書



子守神社

子守神社は天磐樟神と蛭子命の二神を紀る。この社は小野惟喬親王が子供に危害を加へてゐた大鷲を三羽退治し、やがて宮をつくつたのが當社であるといふ傳説を有し、子供の守り神としてかなり熱心に信仰されてゐる。
巨椋氏一族の祖神をまつる社であつた巨椋社の境内に、巨椋氏一族すなはち木地師集團が職の祖と仰ぐ惟喬親王の建立になると傳へる子守社が存在することは、すこぶる注目される。数年前より子守神社の祭神は巨椋社本殿に相殿として祀られるやうになつてをり、子守社は空殿となつてゐる。

式内社調査報告



巨椋神社

巨椋は於保久良と訓べし○祭神詳ならず○小倉村に在す、今春日明神と称す、(山城志)○惣國風土記残欠云、巨椋比淘セ神、圭田五十八束、所祭稚霊魂神也、仁賢天皇3年庚午、奉圭田行神礼、○姓氏録、(山城国神別)巨椋連、今木連同祖、止與波知命之後也、(考証云、按神魂命孫也)
連胤按るに、祭神の説、風土記巨椋比梼ミとして、所祭稚霊魂と云る甚紛らはしく、また姓氏録に依て氏神かと思へば、異神になれり、典証なき限りは定めがたかるべし、

神社覈録



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