荒見神社(久御山町)
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   【延喜式神名帳】荒見神社 山城国 久世郡鎮座

   【現社名】荒見神社
   【住所】京都府久世郡久御山町大字田井小字荒見49
       北緯34度52分57秒,東経135度44分16秒
   【祭神】武甕槌命 應神天皇 仲哀天皇 別雷大神 倉稻魂命
       本来は大歳神一座

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】寛永7年(1630)の洪水により、現地に社が移つたと記されている『山城志』
       明治6年村社に列せられ、この年延喜式内社と認定された

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は不詳
        古伝によれば、旧鎮座地は当社の東南・下津屋に接する小字東荒見・西荒見と称した所という
        寛永7年(1630)の洪水により、現地に社が移つた

   【祭祀対象】
   【祭祀】祭神は変化している。社名も五社大明神と称されていた

山城国風土記逸文(金沢文庫『伊勢内宮』引用)に「荒海の社(祗の社) (祭神)名は大歳神」とあり、8世紀初めには実在していたとみられる。
山城国風土記では天歳神一座とされる。時代を経るにつれ、氏子の信仰によって天歳神が、その弟神で神威の高い稲荷大神に変更され、またこの付近で神威の高い神々を勧請して現在の五柱の祭神になった。
この地の旧家田井本家の先祖が五社明神を創建したとも伝える
巨木多い。社名は古来より変化していない。国道よりよくめだつ。
木津川北の平地にある。いまは市街地の中にある。


荒見神社の由緒

当社の創建年代は不明であるが、延喜式および山城国風土記に現在の神社名で記載されているので、少なくとも千年以上前であることは明らかである。往古の祭神は右の文献によれば天歳神一座とされる。時代を経るにつれ、氏子の信仰によって天歳神が、その弟神で神威の高い稲荷大神に変更され、またこの付近で神威の高い神々を勧請して現在の五柱の祭神になった。
江戸時代当社は、五社大明神と奉称されていたが、明治初年現在の神社名に復した。当社は、寛永七年(1630)木津川堤切れの洪水によって社殿と社地を失い、寛文四年(1664)氏子の寄進によって現在地に社殿を再建した。現在の本殿は当時のもので、江戸時代初期の雄渾な神社建築様式を残す優れた文化的遺産である。
諸記録は元禄年間(1688から1702)以降のものが残っており、田井の氏子の祖先の当社に対する篤い尊崇の跡を示す貴重な資料である。
明治十年(1877)6月、延喜式内社と決定された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



荒見神社

祭神 武甕槌命(たけいかづちのみこと)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
仲哀天皇・応神天皇
本殿 流れ造り、檜皮葺四坪
向拝所 唐破風造り、瓦葺三坪
拝殿 入母屋造り、瓦葺六坪
末社 天満宮(祭神、菅原道真)
   厳島神社(祭神、市杵島姫命)
社務所 入母屋造り、瓦葺一二坪
境内地 五二五坪
由緒
 田井の氏神である荒見神社は、「久世郡神社明細帳」によれば、「明治6年村社ニ被列、同年延喜式内ニ荒見神社記ト決定ノ旨府庁ヨリ達セラル」とあって、明治6年に式内社に確定された。延喜式内社とは、延喜5年(905) 、藤原時平・忠平らが醍醐天皇の命により編さんに着手し、延長5年(927)に完成した『延喜式』巻九・巻一〇の神名帳に登載された神社であるが、荒見神社については、『延喜式神名帳』に久世郡荒見神社と記載されているもので、鎮座地については、城陽市富野荒見田にも荒見神社があり、現在論社となっている。
 いずれの社が式内社であるかということについては、両社が荒見・荒見田という類似する小字に鎮座し、また同郡に所在するうえ、共に五神を祭神として五社明神と通称していることなどから、どちらが式内社であるかの結論は下せない。
 荒見神社の由来は、近世の地誌類である『山城志』によれば、「今佐山村の西、大字田井に荒見の字あり、寛永7年洪水のため社地を失い、今の地に移す」と記されている。旧鎮座地は明らかでないが、伝えるところによれば当社の東南、下津屋に接する小字西荒見とする説がある。
 久御山は江戸時代、三年に一度平年作であればよいといわれるほど、洪水の多発地帯であった。田井を襲った寛永7年(1630) の洪水は、特に被害が大きかったらしく、社寺をはじめ、民家のほとんどが流失したという。土地はその後現在地に移され、寛文4年(1664) の棟札(荒見神社所蔵)に「因正一位五社大明神社皆造宮、寛文四中辰歳大施主当村氏子中」とあって、水害後の造営であることがわかり、そのことは現在の社殿の建築様式からもうかがえる。
神仏習合
 明治維新までの荒見神社は、石清水八幡宮の影響を受けて、神仏習合の顕著な神社であった。安政4年(1857)に作られた「田井村寺社明細帳」には、氏神正一位五社大明神(荒見神社)の項に、「真言宗 無本寺薬師堂 氏神境内にこれ有り候」とあり、また、「氏神御旅所 真言宗地蔵堂」と記されている。
 境内の薬師堂は、梁間二間・桁行五間瓦葺の建物で、神仏分離後は移設・改築されて社務所等になっている。
 また御旅所となっていた地蔵堂は、一間半四方の小さな堂宇であったが、境内は250坪と広く、古老の伝承によると、集落の北辺にあったとされる。神仏分離後に地蔵堂は廃されたが、本尊地蔵菩薩像は円福寺に移安され、地蔵盆等で供養が続けられている。
 なお、荒見神社境内には弘法大師石像が安置されていて、神社に祈願して病気が治った信者が寄進したものと伝えている。
本殿
 寛文4年(1664)に再建された本殿は、獅子の彫刻や、柱・木組に残る極彩色の絵模様は、色彩が僅かに褪せているものの、江戸時代前期の建築様式を今に伝え、唐破風造りの重厚な向拝所と共にすぐれた建造物である。
社標と万葉歌碑
 参道入口の右手に、4mに及ぶ社標が建立されている。「式内荒見神社」と大書した文字は、明治33年12月、正二位勲一等伯爵東久世通禧が揮豪したものである。東久世通禧は三条実美と共に明治維新の元勲で、侍従長をはじめ、元老院・貴族院・枢密院の副議長を歴任し、明治45年1月に没している。また、参道入口の右手脇に平成3年6月に建設された万葉歌碑がある。磨き御影石に「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」と、「万葉集」巻九に記載される歌詩が刻まれている。歌詩の「田井」にちなんで建立されたもので、久御山町唯一の歌碑である。
宮主と宮座
 戦前まで荒見神社には、宮主・宮座制度があった。宮主の起源は、昔、田井氏の本家が五社大明神社を創建したと伝え、後になって本家が三社を守り、二社の祭祀権を黒川氏と田井氏分家に委任したという。
 秋祭りの宵宮(10月8日)には、本家から栗・柿・鏡餅・玄米を合計二〇貫匁(七五キロ)と鯛・鯉を神饌として供えた。九日の本祭は二基の神輿が出て賑わっていたが、洪水で神輿を失ってからは、参道の人口に大提灯と、村の入口に高張提灯を掲げる程度の祭りに変っている。戦後、荒見神社の祭礼は、宮主・宮座から総代に替わり、祭祀運営を司どっている。

由緒書



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