荒見神社(城陽市)
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   【延喜式神名帳】荒見神社 山城国 久世郡鎮座

   【現社名】荒見神社
   【住所】京都府城陽市富野荒見田165
       北緯34度50分27秒,東経135度47分2秒
   【祭神】天照國照彦天火明櫛玉饒速日命 天香山命 天牟良雲命 阿比良依姫命 木花開耶姫命
       本来は大歳神一座

   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】大化3年(647)9月小篠峯に神霊が降り、在地の三富野部連金建が神殿創建
       寛正2年(1461)3月五社谷より社殿を移し、安羅見五社天神宮と称した
       長享元年(1487)本殿、末社(御霊社)を再建改築
       慶長9年(1604)9月本殿、末社(御霊社)を再建改築
       明治6年村社
       明治21年に荒見神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】寛正2(1461)五社谷から現地へ遷。

   【祭祀対象】
   【祭祀】明治21年1月9日に荒見神社と改称するまでは、阿良美五社大明神とか安羅見五社天神宮と称していた。
   【神宮寺】神仏習合期に境内には常楽寺という神宮寺が置かれた。石清水八幡宮豊蔵坊の末寺だったという。

山城国風土記逸文(金沢文庫『伊勢内宮』引用)に「荒海の社(祗の社) (祭神)名は大歳神」とあり、8世紀初めには実在していたとみられる。
大化3年創建と伝。平地。境内は狭いが社地は広い。木津川の北、開けた平地にある。社叢あり。
寛正2(1461)五社谷から現地へ遷。本殿は国の重要文化財で、約400年前の三間社流造である。南の鳥居の後に薬医門がある。
2社の論社のいずれか決しがたい。


御由緒

延喜式内社、国史所載、国内神明帳所載、以下古典による。
宏遠人皇第36代孝徳天皇の御宇大化3年9月小篠峯に此所の管領三富野部連金建畏みて御殿ご創建天神五柱を鎮祭す阿良美五社大明神と申奉る以降神境山麓一帯を五社ヶ谷と呼称す旧社地にして古代より奈良街道に面する聖地たり
第107代後花園天皇の寛正2年3月吉祥日に814年間奉斎神地の五社ヶ谷より現在の神域に吉田神道管領長上ト部朝臣兼知公御神殿を復元造営し遷宮申奉り安羅見五社天神宮と申奉る摂社御霊社同時に遷祀す。
往時奉拝者の生業盛んにして暫時山間部より平野部に遷居、平安と招福を願い同時に農工商業の繁栄と木津川の永代安泰を祈念せるによる。
第108代後土御門天皇長享元年御本殿および摂社再建造営成就、第112代後陽成天皇の慶長9年9月3日御社殿および摂社修復造営成就、現在の社殿なり、明治6年社格制と同時に幣帛共進社に指定さる。
御本殿の壱宇建築様式は三間社流造、摂社壱宇は一間社流造、両殿ともに総檜皮葺御本殿壱宇は明治39年国宝に指定さる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




由緒書

御祭神 天火明尊
    天香山尊
    天村雲尊
    阿比良依姫尊
    木花開耶姫尊
御由緒
延喜式内社国史所載国内神明帳所載、以下古典による。宏遠人皇第36代孝徳天皇の御宇大化3年9月(日本紀元1307年西暦647年、今より1347年前)小篠峯に此所の管領三富野部連金建畏みて御殿ご創建天神五柱を鎮祭す阿良美五社大明神と申奉る以降神境山麓一帯を五社ケ谷と呼称す旧社地にして古代より奈良街道に面する聖地たり
第107代後花園天皇寛正2年(皇紀1221年西暦1461年、533年前)3月吉祥日に814年間奉斎神地の五社ケ谷より現在の神域(往昔の神幸旅所)に吉田神道管領長上ト部朝臣兼知公御神殿を復元造営し遷宮申奉り安羅見五社天神宮と申奉る摂社御霊神社同時に遷祀す。
往時奉拝者の生業盛んにして暫時山間部より平野部に遷居、平安と招福を願ひ同時に農工商業の繁栄と木津川の永代安泰を祈念せるによる。
第108代後土御門天皇の長享元年御本殿及摂社再建造営成就、第122代後陽成天皇の慶長9年9月3日御式は三間社流造、摂社壱宇は一間社流造、両殿共に総檜皮葺御本殿壱宇は明治39年国宝に指定さる。
昭和27年神域及飛地境内地第一種官有地保護を国有地譲輿令により宗教法人荒見神社所有の全面的直轄管理となり管理改変により重要文化財に指定さる。
明治20年12月まで安羅見天神宮と申奉る、明治中期の全国諸社合祀一郷一社指示の節、鎮座地名に依拠し荒見神杜と改称す。大正8年3月修理営繕、同年8月8日竣功、昭和9年9月21日の大暴風雨により神域内古大樹三百余本悉く倒木す、ために御本殿破損、昭和10年3月浄財を以て古式に則り復興に着手、同年10月8日竣功成就、昭和45年10月国費及浄財を以て御本殿及摂杜改葺工事着手、翌年3月竣功す。
昭和47年一狂信者により神門前の大灯籠一対、狗犬一対倒壊さる。役員の努力により旧姿に復旧、同年御旅所を新築す。昭和48年杜務所を増築及修理す。昭和50年国費及浄財を以て全建物の防災施設完了。昭和54年4月伊勢神宮第60回式年遷宮に当り豊受大神宮御正殿棟木等15石651の撤賜古材で幣殿造営竣功。
昭和52年5月神輿庫、神門基礎、神塀、排水溝、新設便所等浄財を勧募して修建完工昭和53年6月鳥居修復竣功、第二次造営中に献木、照明鉄柱、大鈴、御翠簾、鳥居社号額、玉砂利等篤信の奉納あり、昭和55年1月防火対策上境内神燈を増設す。
創建以来照明神域に満つ、また御旅所境内改装す。同年2月社運の隆盛を願い敬神活動団体として前任役員と現職総代を以って安羅見会を結成発足す。永年の懸案であった社務所改築が総代・安羅見会・自治会の協力を得、氏子崇敬者の浄財を以って、昭和58年7月竣功。また額・絵馬・灯籠等の奉納相つぎ、御社頭の隆盛をみる。昭和59年4月神域の杜全体が京都府文化財環境保全地区に指定、摂社御霊杜が京都府登録有形文化財に登録される。昭和60年12月神道日垣の庭の奉納により菊水の神座天津新水乃真名井竣功す。
うるわしくこうごうしい皇祖天神五柱神紋菊花、皇母神神紋五七の桐の神紋を拝し、流造朱塗の御神殿瑞垣内に鎮まり神門神さびて華麗典雅なる輪換の美を装ひ御神慈亮々たる掌韻嘉して渺々木霊に籠り豊栄の旭陽輝き茜夕陽照映えて清厳なる神前に拝者洗心す。御本殿の彫刻は蟇股の中に唐獅子、木鼻は若葉なり。

由緒書



荒見神社

一棟 重要文化財 荒見神社本殿
 一棟、京都府登録文化財 境内社御霊社
 荒見神社文化財環境保全地区
 旧富野村の産土神。社伝によれば、もと五社ケ谷にあったが、室町時代(15世紀ころ)に現在地に移ったという。当社は、祭神が多い (五柱)のが特徴。社叢は水田の中に立つ森で、アラカシ・シイ・クスが繁茂している。
 周囲には堀割がめぐる。南面の鳥居をくぐると薬医門があって神社としてはめずらしい、神仏習合時代のおもかげを残している。
 境内に入ると西面して本殿が立つ。富野の有力大工の手になるもので、桃山期建築の特徴をよく示す。本殿は慶長9年(1604)の棟札をもつ三問社流造、檜皮葺。本殿右側の境内社御霊社は、一問社流造、檜皮葺の小規模な建物。建立時期について、蟇股は本殿のものより古い室町後期頃の特徴をもつが、組物、木鼻は近世のもので本殿と共通する。
  城陽市教育委員会

社頭掲示板



荒見神社

おやしろは皇紀1307年即ち大化三年(648)に五社谷の浄地に創建され、寛正二年三月に今の神地にご遷宮。御社殿は慶長九年九月三日再建。明治中頃まで安楽見天満宮の御社号なり。
三間社流造で元国宝。学業達盛、子守の神様、安産育児、延命宝寿、子孫繁栄、家事隆盛、交通航空安全、建築業に宝運の御加護を垂れ給ふ神々をまつる信仰社。
神井の湧水は諸禍退散生命根源の神水なり。
古くより宮座あり古儀を伝えて西富野宮座現存す。
昭和50年5月吉日

社頭掲示板



荒見神社

荒見は阿良美と訓べし○祭神詳ならず○田井村に在す、今五社と称す、(山城志)

神社覈録



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