木津川の西。本来は田地の中の集落内の小社。平地。 本来境内の東に隣接した地の小字大將軍の田中に小丘があり、これを大將軍塚とよび、塚上に小祠があり、大龍王宮社と称していた。大將軍塚は惟喬親王御霊社の址と伝えている。 この社名がいつか当社の名前となった。 安産のために巻く岩田帯は当社に由来すると伝。 当社は岩田里の石田神社から勧請したとする説もある。 |
石田神社 大月次新嘗 石田は伊波太と訓べし、(万葉集十二に、山代石田社心鈍手向為在妹相難)○祭神石田氏祖神歟〇岩田村に在す、今綴喜郡に属す、今御霊と称す、(山城志)○日本紀、垂仁天皇34年、先是娶仙背苅幡戸辺、生三男、五十足彦命、是子石田君之始祖也、 考証云、今在木幡東北、栗栖與木幡交也、俗称神明営在森中、云るは山科の石田にて宇治郡なるを、石田の名同じきにより考へ違へる僻説也、 類社 河内国若江郡石田神社二座、伊勢國多氣郡、越前国敦賀郡、同國坂井郡石田神社、(各一座)大和国吉野郡伊波多神社、 神社覈録 |