なだらかな斜面にあり。きらびやかな社。名神道路の東京都橘女子大の北の住宅地の中にあり。 社殿の東500mに巨石がある。 岩屋神社は山科神社奥の院であるとしている(現在は独立の神社)。 大石良雄が山科に隠棲していたとき、岩屋神社に参篭して大願成就を祈ったと伝えられる。 |
岩屋神社略記 本社は天忍穂耳命、栲幡千千姫命の夫婦二柱と、その皇子饒速日命の親子三柱を祭神する。本社の根源は、奥ノ院、また岩屋殿と称す本社後山の山腹に座す陰陽の両巨巌である。これは今の社殿様式のように、定まった参拝設備のなかった時代での石座信仰の名残であり、この発祥は仁徳天皇三十一年と伝わる。 後年宇多天皇の御世寛平年間に、陰巌に栲幡千千姫命を陽巌に天忍穂耳命を、また岩前小社に大宅氏の祖神とし饒速日命を祀る。 約一千百年前のことである。その後社殿は、治承年間に園城寺僧徒の焼くところとなり、旧記も共に失う。弘長二年にいたって社殿は再建され今日に至る。 現存する古代木製高麗狛は当時のものである。また中世に東西上の岩屋三社と呼ばれた神社は、東が当社であり、西が山科神社、上は不明である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
注釈 磐座信仰の地である。物部系の大宅氏がこの山科の地を開拓するに当たり祖神饒速日命を祀ったのである。 饒速日命は天磐船に乗って天下ったとの伝承から、巨石のある神社では河内の磐船神社二座が有名である。 中世、岩屋三社と呼ばれた神社で、東は当社、西は山科神社、上は不明とのことである。 高塚山の麓に鎮座、奥院として、岩屋殿と言う神社の後ろの山腹に陰石、その上方に陽石と呼ぶ巨岩がある。陰石の上には木々が茂っている。そこまでの山道は切り開かれており鳥居が並んでいる。苔生す趣のある道で500m程の距離である。 磐座信仰の遺跡として名高い。陽石に天忍穂耳命を祀り、陰石に栲幡千々姫命を祀っている。三輪大社と同様にな太古の信仰の形態から神社へ発達していったものであろう。
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岩屋神社 本社は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦二柱と、その皇子・饒速日命(にぎはやひのみこと)の親子三柱を祭神とする。本社の根源は、奥之院、また岩屋殿と称する本社後背山の山腹に座す陰陽の両巨巖である。これは今日の社殿様式のように、定まった参拝設備のなかった時代の石座信仰の名残であり、発祥は仁徳天皇三十一年と伝わる。後年宇多天皇の御世寛平年間に陽巖に天忍穂耳命を、陰巖に栲幡千々姫命を、また岩前小社に大宅氏の祖神として饒速日命を祀る。約一千百有余年前のことである。その社殿は治承年間に園城寺僧徒の焼くところとなり、旧記も共に失う。弘長2年に至って社殿は再建され今日に至る。現存する古代木製高麗狛は当時のものである。 また、中世に東・西・上の岩屋三社と呼ばれた神社は、東が当社であり、西が山科神社、上は不明である。 公式HP |
岩屋神社 由緒 本社は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦二柱と、その皇子饒速日命(にぎはやひのみこと)の親子三柱を祭神とする。本社の根源は、奥之院、また岩屋殿と称す本社後山の山腹に座す陰陽の両巨巖である。これは今の社殿様式のように、定まった参拝設備のなかった時代での石座信仰の名残であり、この発祥は仁徳天皇31年(343)と伝わる。後年宇多天皇の御世寛平年間(889ー898)に陽巖に天忍穗耳命を、陰巖に栲幡千々姫命を、また岩前小社に大宅氏の祖神として饒速日命を祀る。約一千百有余年前のことである。その御社殿は、治承年間(1177-81)に園城寺僧徒の焼くところなり、旧記も共に失う。弘長2年(1262)に至って社殿は再建され今日に至る。現存する古代木製高麗狛は当時のものである。 また、中世に東・西・上の岩屋三社と呼ばれた神社は、東が当社であり、西が山科神社、上は不明である。 本殿内御祭神 ・天忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと) 別名正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやひめのおしほみみのみこと)と称し、天照大神の太子であり、当社饒速日命の御 父神である。山の信仰と祀られ、家内安全、厄除、勝運の神様として崇敬されている。 ・栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと) 高皇産霊命の女、天忍穂耳命の妃で饒速日命の御母である。別名万幡豊秋津師比女(よろずはたとよあきっしひめ)ともいい、織物に功績著しい神様で、機織り染め物関係の守護神として崇敬される。尚、子授け・安産の神様として信仰されている。 ・饒速日命(にぎはやひのみこと) 前記二柱の夫婦神の皇子で、別名天火明櫛玉饒速日命(あめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)という。怪我腫物、病気平癒の神様で、交通安全祈願の神様としても崇敬されている。 境内社 ・蛭子社 福徳七神の蛭子大神を祭神とする。招福の神様として漁村、農村、商家を中心に近世以降広く崇敬されてきた神社である。 ・大神宮 天照皇大神、豊受大神を祭神とする。伊勢内外宮の神様であり、戦国時代末頃より各地に祀られ、全国に神明社は一万八千を数える。 ・稲荷社 宇迦之御魂神を祭神とする。宇迦とは食物のことで食物守護、また商売の守護神として全国津々浦々に約三万社祀られている。 ・八幡宮 応神天皇、神功皇后の母子神を祭神とする。親子愛による家内安全や源氏の氏神として武家にも信仰され、全国に11万五千社存する。 ・天満宮 菅原道真公を祭神とし、詩歌、学問の神様として信仰される。平安時代の最も優れた学者、道真公を祀る天満宮は全国に約1万五千社。 ・山王社 大山咋命を祭神とし、山林守護の神様である。比叡山の鎮守として日吉神社が尊重され、神仏習合の下、近世には各地で信仰された。 ・住吉社 底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱を総称して住吉神という。漁業、航海などの海上守護の神様として広く信仰されている。 由緒書 |
岩屋神社 天忍穂耳命、栲幡千千姫命の夫婦二神とその皇子・饒速日命の親子三柱を祭神とする。 本殿背後の山腹に陰巌・陽巌と称する一対の巨岩があり、そこに神が降臨すると考えられていた古代に、これを磐座として祀ったことが始まりと伝えられている。社伝によれば、仁徳天皇31年(343)の発祥とされ、境内から奈良時代以前の土器が出土している。後年、宇多天皇の寛平年間(889−98)に陽巌に天忍穂耳命を、陰巌に栲幡千千姫命を、また、岩の前の小社に付近の大宅氏の祖神として饒速日命を祀った。社殿は治承年間(1177−81)に園城寺僧徒により焼失されたが、弘長2年(1262)に再建され、今日に至っている。現在、山科北部における産土神である。 京都市 社頭掲示板 |
郷社 岩屋神社 本社は、其の創建年代詳かならす、社記に拠れば本朝神社考には、「寛平12年始祭之」とあり、又、神名帳に山科神社二座とあるものにして、大社に列し、月次新嘗祈年案上の祭に預かるといへり、此の山科神社は神紙志料に「今下小野里勧修寺村にあり、宮道明神(又二所明神)といふ、蓋宮道朝臣の祖建具児王及宮道朝臣彌益を祭る、(延喜式、神名帳考証、勘修寺縁起)建具児王は景行天皇の皇子に坐し、宮道朝臣彌益は醍醐天皇外曾祖父なり(延喜式、本朝月令)覈録には祭神稚武王と見ゆ、山城志に「在大宅村與大塚蜘辻共祭祀、有額背面書曰、寛永元年4月7日、左京大夫從四位下藤原経明題焉」とあり、伝來の社記に、高倉天皇治承4年5月、園城寺の火に罹りて、社殿と共に鳥有に帰せり、然るに亀山天皇御宇弘長2年3月、本社再興あり、毎年4月及11月の上巳日を以て、嚴なる神祭を執行し、今に至りて怠らす、私祭は中興より9月16日、或は9月9日なりしが、維新後改めて10月16日とせり、此の三度の神祭には勿論、日々玉体安全、宝祚無窮、天下泰平、五穀豊熟の祈祷を行ふを以て、朝廷より御供米として年々現米一石五斗下賜せられしが、維新後廃止となりたり、本社の由緒につきて、社記に「天忍穂耳命、栲幡千々姫命、此二神降臨旧跡、本社背の山半腹に大巌石二基あり、陰陽岩と曰ふ、陽岩には勧請天忍穂耳命、陰巌には勧請栲幡千々姫命、巌石の傍に小社あり、是れ当社摂社大宅首の祖神饒速日命を祭れり、故に本社此の三神を齋奉れり、其の陰岩の上に有小窪、水常に無尽、雖旱魃重月尚湛々然たり、名づけて曰龍関水、是明神の霊水なり、為雲必有感応天油然として起雲、沛然として下雨なり」と見えたり、又古老の伝説に云ふ、聖武天皇神亀年中、暫く当所に都を遷し、村名を大宅と称す、二條院応保元年7月、左大臣實雄公当所に御殿を造営せり」と、又高倉院治承3年6月、建春門院殿、新たに御所造営ありしも、治承4年5月23日、園城寺より火出て、両御所並に民家残らず焼失せり、両御殿とも山科御殿とも称し、今の南都興福寺を山科寺と称し、当社を山科の大神岩屋の明神と称す」とも云ひ伝ふ、而して本社は弘長再興の後、文政年中屋根再建の節、棟札に、岩屋宮初より文政6年迄1481年を経たる旨を記せり、明治6年7月郷社に列す、社殿には、本殿、拝殿、御供所、宝蔵、御輿蔵等あり、境内963坪ありて、其中官有地630坪、民有地333坪なり。 明治神社志料 |