山科神社
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   【延喜式神名帳】山科神社二座(並名神大 月次/新嘗) 山城国 宇治郡鎮座

   【現社名】山科神社
   【住所】京都市山科区西野山岩ケ谷町1
       北緯34度58分6秒,東経135度47分44秒
   【祭神】日本武尊 稚武王
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建された。
       延喜11年(1011)正月6日四度の幣に預る。『本朝月令』
       延長6年(1018)11月9日内印あつて山階大神に正四位下を授け奉る。『扶桑略記』
       明治期に山科神社と改称

   【関係氏族】宮道氏とその後裔勧修寺家
   【鎮座地】当初鎮座の地であろう

   【祭祀対象】宮道氏の祖神
   【祭祀】祭祀は継続している
       江戸時代は「西巌屋大明神」と称していた

   【神宮寺】北に隣接する岩屋寺は、当社の神宮寺であったともいう

寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建。
この地の豪族、宮道氏の祖神と宮道氏の後裔勧修寺家がその祖神としてまつる。
岩屋神社を奥の院とする。
山腹の神社。


山科神社

日本武尊稚武王を祀る。
社伝によれば、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後、この地の豪族、宮道氏の祖神として、また、山科一之宮とも呼ばれて、この地の産土神として、崇敬をうけ、栄えてきた。昔は社領も広く、山城及び丹波にあり社殿の規模も大きかったが、現在は本殿、権殿、拝殿、神庫などが残っている。
また、元禄14、5年(1701〜1702)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して大願成就を祈ったといわれている。
例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



山科神社

日本武尊稚武王を祀る。
社伝によれば、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後 、この地の豪族、宮道氏の祖神として、また、山科一之宮とも呼ばれて、この地の産 土神として、崇敬をうけ、栄えてきた。
盛時には社領を丹波、山城に持ち、社殿の 規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は三間社流造の本殿及び、権殿、拝殿、神庫などが残っている。
また、元禄14、5年(1701〜1702)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲 していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して大願成就を祈ったといわれてい る。
例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。

社頭掲示板



山科神社本殿

現本殿の建築年代を明らかにする史料はないが、東殿の前に立つ石燈籠に寛永20年(1643)鳥居に万治3年(1660)の刻銘が見られる。一方、本殿の細部の彫刻に古風なところがあり、また、部材の風触が大きいことから、室町時代後期造営の可能性もあるが、一部に後補材が認められ、江戸時代前期には現在の形態になったものと考えられる。
山の中腹に東に面して建つ三間社流造のこの本殿は、造営が古く、また、質も高く貴重な遺構であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
京都市

社頭掲示板



山科神社二座 並大月次新嘗

山科は也末之奈と訓べし、和名鈔、(郷名部)山科、(假字上の如し)〇祭神稚武王歟、(風土記残欠、木花咲耶比唐ニいふ、)○勧修寺村に在す、今宮道二所明神と称す、○旧事紀、(天皇本記)稚武王、(日本武尊子)宮道君祖、』
当社は宮道氏祖神なる事、次の條に明か也、』醍醐天皇外祖母、贈正一位宮道列子より、祭祀は始まる也、
神位
扶桑略記裏書、延長6年11月9日庚辰、有内印山階大神奉授正四位下、
祭祀
諸社根元記云、新國史云、延喜11年正月6日宣旨、山科神二前、右依宮道氏人内臓少允宮道良連等去年8月7日解、初付官帳四度幣、称件氏神、依去寛平10年3月7日奉敕宜旨、初預享公家春秋祭礼、又預四度官幣、』式十五、(内蔵寮)山科祭云々、使等装束云々、右夏4月冬11月、並上巳祭之、預前裏備幣物、使等進発、」同四十八、(佐馬寮)
凡山科等社夏冬祭走馬十疋、其使属一人卒馬医騎士馬部等供奉、」公事根源云、山科祭、(4月上巳日11月同、)この社は、宮道氏の祖神也、寛平10年より祭ははじまる、

神社覈録



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