彼方神社
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   【延喜式神名帳】宇治彼方神社  鍬靫 山城国 宇治郡鎮座

   【現社名】彼方神社
   【住所】京都府宇治市宇治東内28
       北緯34度53分39秒,東経135度48分27秒
   【祭神】大物主命
       『神社覈録』や『大日本史』神祇志等には、宗像神を祀るとしている

   【例祭】12月6日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創祀の由縁並にその沿革等は不明ながら宇治の彼方にまつられた神の社と考えられる。
   【関係氏族】
   【鎮座地】地座地に大きな変化はないと思われる
        旧大鳳村(大鳳寺村?)にあったともいわれるが不詳

   【祭祀対象】川を祭った?
   【祭祀】宗像の神→諏訪明神→現神と変わってきている

源氏物語宇治十帖「椎本」の古跡とされている。諏訪明神を祭神とし、古くは宗像(むなかた)の神を祀ったといわれている。
源氏物語 第四十六帖
  立ち寄らむ蔭とたのみし椎本 むなしき床(とこ)になりにけるかな
京阪宇治駅の東、宇治川の北岸。静かな家並みに囲まれている。社前の灯篭に諏訪大明神とある、水と風の神にちなんだ神社で、 宇治川に寄せた信仰があったと考えられている。


椎本

春、花の頃、匂宮(におうのみや)は、初瀬詣(はつせもうで)の帰路、宇治の夕霧の山荘に中宿りし、お迎えの薫君(かおるのきみ)やお供の貴族たちと音楽に興じた。楽の音は対岸の八宮(はちのみや)の邸にもよく通い、八宮は都にいられた昔を偲ばれた。
 薫君から二人の姫君のことを聞き、ゆかしく思っていた匂宮は、宇治に消息(しょうそこ)を送ったが、返事はいつも妹の中君がなさるのだった。
 薫君は八宮を仏道の師と仰いで、宇治を訪れ、姉の大君(おおいきみ)に強くひかれていく。
 八宮は死期の近いことを感じ、姫君たちに身の処し方について遺言し、信頼している薫君に姫君を頼み、秋も深いころ、阿闇梨(あざり)の山寺で、さみしく静かに生涯を閉じられた。
 たちよらむ蔭(かげ)と頼みし椎が本
    むなしき床(とこ)になりにけるかな
平成18年10月
(財)宇治市文化財愛護協会

社頭掲示板



源氏物語の古跡

境内に二本の椎の木があったといい、「椎本之古跡」とされている。当社は椎ヶ本社とも称した。椎本(しいがもと)は、『源氏物語』第46帖、宇治10帖(第45帖-第54帖)中の第2帖で物語後半に舞台となる。巻名は、源氏の子・薫が亡くなった桐壺帝の第八親王・八の宮を偲んで詠んだ「立ち寄らむ 陰とたのみし 椎が本 むなしき床に なりにけるかな」に因む。その意は、立ち寄るべき陰とお頼りしていた椎の本は虚しい床になってしまいました。
 今上帝の第三親王・匂宮は、薫から聞いた八の宮の姫君たちのことが気になり、初詣の帰りに、宇治の光源氏長子・夕霧の別荘に立ち寄る。その後、八の宮は死期を悟り、長女・大君、次女・中の君たちの後見を薫に託す。娘たちには身を慎むことを戒め八の宮は亡くなる。年の暮れ、薫は大君に匂宮と中の君との縁談を伝え、自らは大君に心寄せていると告げる。だが、大君は取り合わない。匂宮は、夕霧の養女・六の君との縁談に気乗りせず、薫もまた大君のことを諦めきれない。翌年の夏、薫は宇治を訪れ、喪服姿の大君の美しさに心を惹かれてしまう。

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彼方の疎林の松原

奈良時代の『日本書紀』、神功皇后(じんぐうこうごう)の条に、この地「彼方(おちかた)の疎林(あらら)の松原」が登場する。
 弥生時代(2世紀)、新羅征討中に第14代・仲哀天皇(?-200、実在不詳)が亡くなり、神功皇后(170-269、実在不詳)は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、第15代・応神天皇、201-310)を産む。皇位継承争いから、仲哀天皇の子・忍熊皇子(おしくまのみこ、? - 201、実在不詳)は挙兵する。皇后は、大将・武内宿禰(たけうちのすくね、84-367)と武人・武振熊(たけふるくま、生没年不詳)に皇子を討たせる。皇子軍は体勢不利で後退を続け、菟道(宇治)に皇后軍を迎え撃つ。皇子軍の熊之凝(くまのこり、生没年不詳)が先鋒となり、味方の兵を激励して詠む。
 「彼方(おちかた)の 疎林(あらら)松原 松原に 渡り行きて 槻弓(つくゆみ)に まり矢を副(たぐ)へ」、「貴人(うまひと)は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ戦はな 我は」、「たまきはる(枕詞) 内の朝臣(あそ)が 腹内は 小石あれや いざ戦はな 我は」(遠方の疎林の松原に進み、槻弓(欅の弓)に鏑矢を番え、貴人は貴人同士、親友は親友同士でさあ戦おう、我々は。武内朝臣の腹中に、小石が詰まっているはずはない。さあ戦おう、我々は。)(熊之凝)。
 忍熊王の返歌。「いざ吾君(あぎ) 五十狹茅宿禰(いさちすくね) たまきはる 内の朝臣(あそ)が 頭槌(くぶつち)の 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづき)せな」(さあ、わが君、五十狹茅宿禰よ。武内宿禰の太刀の痛手負わずに、鳰鳥(カイツブリ)のように水に潜って死のう。)(忍熊王)。(『日本書紀』歌謡番号28、29)。
 皇子は、武内宿禰の策略により武装を解き、逃走した逢坂で敗れた。皇子は、五十狭茅宿禰(生没年不詳)とともに瀬田川に投身する。その遺骸は数日後に菟道河(宇治川)から発見されたという。(『日本書紀』、『古事記』)

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宇治彼方神社 鍬靫

宇治は前に同じ、」彼方は哀知加多と訓べし、(彼方は大祓詞に見え、また万葉集十三長歌に、巳母理久乃、波都世乃加波乃、乎知可多爾云々ともあり、)〇祭神宗像神、(風土記)○今離宮末社、大鳳寺村一座(作林中)是乎、(名勝志)○惣國風土記残欠云、宇治遠方神社、圭田四十五束三毛国、所祭宗像神也、雄略天皇3年、始奉圭田加神禮、
比保古云、日本武尊也、晋於駿河國夷賊野付火為奉焼殺於尊、時遠方繁木本以焼鎌利鎌如打払唱給、取其縁当社號彼方神社と云るは杜撰ならずや、日本武尊を祭るといふ事さへ、信用しがたきをや、」さて大祓詞の彼方は、後釈に云る如く、地名には非ざれど、爰は既く地名なる事、風士記残欠に、遠方郷とあるにて明か也、

神社覈録



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