大化1(645)創立。岡屋小学校の西となりの平地。街中の神社である。川より少し離れている。社地は小さい。 この地は明治8年柳山の旧社地が陸軍省の火藥庫建設用地に宛てられることになったため移転した、もと御旅所の位置である。 勝運を授かる神社として知られ、皇位継承をめぐる壬申の乱(671)を前に大海人皇子(天武天皇)が戦勝祈願をした。 後に征夷大将軍・坂上村麻呂が東征に際して武運を祈った。 さらに競馬発祥の神社として知られ、往古、社殿より続く東西2キロの馬道で『競べ馬』の神事が執り行われていた。当時の馬具である平安時代と鎌倉時代の鐙(あぶみ)や鎌倉時代の木鞍等が今も神社の宝物として保存されている。中でも平安時代の鐙(半舌鐙)は、我が国で現存唯一の貴重な遺物として重要文化財に指定されている。 中央競馬会とも関係の深い神社である。 |
許波多神社略記 御祭神 瓊々杵尊 天忍穂耳尊 神日本磐余彦尊 諡神武天皇 当神社は孝徳天皇大化元年(645)勅願により皇祖の御神霊を奉祀するため創建せられ延喜式神名帳(927)所載の大社である。貞観元年(859)従五位の神位奉授、永禄12年(1569)正一位の神位を宜叙せられた。 明治8年まで旧大和村柳山に境域三万六千余坪を擁し鎮座の故に柳大明神と称し奉った。 寛永17年(1640)牛疫平癒御祈祷のため次の和歌を御献詠になった所さしも激しかった牛疫も急に治まったという。 憐をたるゝ柳の神ならは 死(ぬる)をうしと思(ひ)やはせぬ 延宝六年(1678)社殿営繕の折宮中より金品を賜った。天和2年(1682)遷宮の折神祇管領吉田兼連御参向近衛家より正副奉幣使が幣帛を供進せられた。累代例祭遷宮祭には近衛家より奉幣使参向されるの制であった。 明治9年柳山境内地陸軍火薬庫用地に上地に付、旧岡屋の当神社御旅所であった現在地に移転、御社名を現名称に復した。 国指定重要文化財 本殿 一棟 府指定有形文化財 男女神像 二体 社頭掲示板 |
許波多神社御由緒 鎮座地 京都府宇治市五ケ庄古川十三番地(隠元橋東、当神社御旅所) 前鎮座地 旧五ヶ庄大和田村、柳山(現宇治市黄葉運動公園) 氏子区域 宇治市五ヶ庄全域と他地域信者 御祭神 天津日子彦火瓊々杵尊 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 神日本磐余彦尊 諡神武天皇 御神徳 御神徳については、我国最古の歴史書である古事記、日本書紀に明らかである如く、伊勢に座す天照皇大神の直系の神々であり、我国の基礎を築かれた肇国の神であらせられる。 創建 孝徳天皇大化元年(六四五)右大臣蘇我倉山田石川麻呂の奏上を聞食され、皇祖の御神霊を奉祀するため、中臣(藤原)鎌足に詔して、山背国兎道郡許畑、柳山に神殿を造営し、祭祀を掌らしめられた。 皇孫瓊々杵尊は、神勅を奉じて我国に降臨せられたが、御父天忍穂耳尊は、高天原に止まられたので山陵が無かった。そこで、この尊を祀る神社を創立し、同時に直系の御子孫を配祀せられた。 社号の由来 往古は、字治市の川東、東宇治、京都市伏見区桃山南口あたり一円の地名を「許波多」「木幡」「許の国」と称していた。当神社は、創建当時、許波多神社あるいは木幡神社と号したが、柳山に鎮座の故に、後に柳明神と通称せられ、これが正式の社号となっていた。(明治九年前鎮座地=写真=から御旅所だった現鎮座地へ移転。 式内大社 延喜式神名帳(927)に山城国宇治郡許波多神社三座月次新嘗とあって、当時は官幣にあずかる大社であった。現在、式内社とよばれる神社である。 神名帳所載の神社、大小三千百三十二座のうち天忍穂耳尊を奉祀する大社は、唯一当杜のみであった。この故に釈日本紀(1274)は、「許波多神社に座す神は、宗廟の神として他と異にして尊崇すべきである」としている。 正一位の神階 永禄十二年(1569)9月正一位宜叙。正一位柳大明神と崇められた。 信長記に「元亀3年(1572)7月16日、信長公槙嶋室町殿に対い五ケ庄柳山に旗を樹てらる」とあって、当社地に織田信長が布陣し、槙嶋城による将軍義昭を攻略したことがわかる。戦禍によって建物の多くは焼失し、古記は失われた。 神社復興 元和7年(1621)領主近衛信尋公、柳大明神神主に木村右兵衛尉藤原治安を推挙し、同時に社地境域、東西六町、南北八町を定めて神領地とせられた。 疫病平癒祈願 寛永17年(1640)の秋、五ケ庄及び近在に牛馬疫流行、信尋公が牛馬疫と、心労で病める人々の平癒祈願をこめて、次の和歌を御献詠になったところ、さしも激しかった疫病も急に治まったという。(山城名勝志にも記載) 憐をたるゝ柳の神ならは 死(ぬる)をうしと思(ひ)やはせぬ〔和歌懐紙現存〕 政府(旧軍)による強制移転 明治8年陸軍火薬庫建設につき、社地全域を官有地に変更、無償上地仰付られ、創立以来の境内地より同9年、山林樹木に対する補償もなく御旅所だった現在地に移転、同時に神社名を柳神社から許波多神社と復称。 重要文化財 当神社本殿は三間社流造、室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。 内陣御樋代の御扉に永禄5年(1562)9月26日造立之の銘がある。また従前柳明神と奉称していたことにより、本殿蟇股(かえるまた)に、柳の象形彫刻があり、棟の両端にも柳の文様がある。 勝運を授かる 皇位継承をめぐる壬申の乱(672)を前に大海人皇子(天武天皇)が戦勝を祈願。征夷大将軍・坂上田村麻呂も東征に際し武運を祈った。 由緒書 |
郷社 許波多神社 本社創建年代詳かならず、或は大化年と伝ふれども未だ確証なし、旧称柳神社、一に許波多神社といへり、元五箇圧内大和田村の東方柳山に鎮座ありけるを、明治9年10月、陸軍省火藥庫建設につきて、現社地に移転し、造営の後社号を許波多神社と復旧せり、即ち神祇志料に「許波多神社三座、今木幡村木幡山にあり(按山城志二座は木幡村、一座は五箇圧大和田にあり、倶に幡明神と云ふ、)其一座は天忍穂長根命を祀る、之を祇社といふ、」神社考に云く「一書吾勝尊、作天忍骨尊蓋吾勝尊、不降下土、故無山陵而祀其霊、名木幡神社、是天照大神之子也」と、清和天皇貞観元年正月從五位上を奉進し(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に大社に列し月次新嘗祈年案上の官幣に與かる(延喜式)亀山天皇弘長元年諸祭を興行し給ふ時、当社神主、祈年月次幣帛を受けて仕へ奉りき(釈日本紀)正親町天皇永禄12年正一位に叙せられ、朝廷の崇敬淺からす、社殿修繕等に方り屡々金穀を寄せらる、天正年代は南都興福寺の支配に係り、社司神人家禄を宛てられ、祭典料米八石六斗宛毎年奉行所より奉納せり、元禄12年松山九町一畝十歩、此高一石五斗宛附せられしといふ、後桜町天皇明和8年には、禁裏御所御悩につき、日々祈祷を仰付けられき、天明の後式微に至りしも、其後天保2年の例祭には稍復旧せり、明治の初年郷社に列す、尋いで遷宮並に改号ありて、従来の社号柳神社を改めて現社号とせも、抑本社は、高天原大和地方現在説より、当社旧境内柳山に二個の怪石あるを、天忍穂耳尊降臨の跡なりと言ひ傳ふれども、いかがあらん、社殿には、本殿、拝殿、假殿、神輿舎等あり、本殿は三間流造檜皮葺にて、建坪7坪1合、古社寺保存法に依りて特別保護の建造物たり、境内523坪(官有地第一種)ありて、之を隔つる西方四百余間にして宇治川に沿ひ、社後北方遙に桃山に対し、比叡、愛宕の両山を望む。此地旧旅所地たりしを以て、樹木鬱蒼として昼尚暗く、中にも古杉の廻り一丈五尺位のもの数株ありて、古社たる風致に富めり、神体は木橡、宝物には宝徳3年棟札2個、天文7年神輿棟札2枚、社記2冊、及び寛永17年牛疫流行せし時、近衛鷹山公詠みて柳大明神に賦せし「憐みをたるゝ柳の神なれば死ぬるをうしと思はざらんや」の歌を、公が手書せる懐紙等あり。 特有の祭事は、8月8日神輿二基神馬二頭卿旅所へ神幸、9月26日本社へ還幸ありて、当日は神職の外左方右方の当家と称し、黒袍衣冠騎馬にて供奉する者両人あり、其の警護者素袍を著たる者数十人、行列厳重なり、其の当家選出の法、神前にて神籤を抽きて定め、当選者は自宅にて神祭し、潔斎極めて厳重なりとぞ。 明治神社志料 |