許波多神社(木幡東中)
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   【延喜式神名帳】許波多神社三座(並名神大 月次/新甞) 山城国 紀伊郡鎮座

   【現社名】許波多神社
   【住所】京都府宇治市木幡東中1
       北緯34度55分36秒,東経135度47分55秒
   【祭神】正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天照大御神 天津日子根命
   【例祭】8月8日、9月26日
   【社格】旧郷社
   【由緒】大化年中(645−49)孝徳天皇が中臣鎌足に詔して神殿を大和田柳山(今、五ケ庄三番割東山柳山)に建てる(社伝)
       貞観元年(859)正月27日從五位上を授けられる。『三代実録』
       鎌倉時代にはすでに正確な所伝が失われていた。
       いつのころにか、旧木幡村と五ケ庄大和田村とに分祀した。
       応保年間(1161-1163)に、柳山から、現在地に分祀されたと伝えられる。

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初大和田柳山(今、五ケ庄三番割東山柳山)に創建。
        いつのころにか、旧木幡村と五ケ庄大和田村とに分祀した。

   【祭祀対象】
   【祭祀】「こはた」の社名は継続しているか?

JR木幡駅の北、線路に沿って社地がある。社叢が良く目立つ。
皇極天皇が夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神のお告げにより中臣鎌足に詔して木幡荘に神殿を造営したとされている。
天武天皇が壬申の乱の前吉野への途中で当社に柳の枝のむちを瑞垣にさし勝運を祈願したところ柳のむちが芽をふきだし後に天武朝を建てたと伝えられることから勝運を祈願する神社とされている。
もとは柳山に鎮座していたため、柳大明神とも称されていた。


許波多神社

一.鎮座地 京都府宇治市木幡東中1番地
一.祭神  正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天照大御神 天津日子根命
一.由緒の概要
皇極天皇はお夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神の御告げに恐懼され藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し大化元年9月16日(645)奉遷し式内木幡(許波多神社)と尊称さる。
天智10年10月大海人王子(後に天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて大津の宮より吉野に向かわれる途中、当神社前で龍馬が進まず、御鞭に柳枝を奉りしに親王は御自らその柳枝を瑞垣の側土中に挿しこみ神明の冥助を祈願し賜いし処、不思議や龍馬が急に進みて無事に吉野に到着さる。
大海人王子は「壬申の乱」に御戦勝後、白鳳2年1月飛鳥浄見原宮で即位し給う。兵草の患なく天下よく治まると共に彼の柳枝も大きく繁茂す、是偏に神明の御加護と叡感あり、神柳に正一位官幣を寄進さる。
よって柳大明神と奉称する。以後代々の天皇より勅使参内、奉幣、官幣の寄進等度々ありその間社殿の造営、修理等数度に渉りなされている。
追記、明治42年1月 田中神社を合祀して今日に至る。

社頭掲示板



郷社 許波多神社

創立年代詳ならずと雖も.許波多神社三座は、醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次、新嘗、祈年案上の官幣に預れり、(延喜式)清和天皇の貞観元年正月27日、従五位下許披多神社に従五位上を授けらる、然るに式内許波多神社と称するもの本村に二社あり、即ち一は本社にして、一は前記の本村大宇五ケ庄村字古川にあるもの是なり、其孰れが果たして式内社なるか、諸説一致せず、夫の神祇志料に云く、
許波多神社三座今木幡村木幡山にあり、其一座は天忍穂長根命を祀る、之を祇社といふ、云々」
と、又神社覈録に、
「祭神天忍穂長根命(相殿二座詳かならず)〇木幡村、大和田村両処に在す、共に今柳大明神と称す、云々、神社考云、一書吾勝尊作天忍骨尊、蓋吾勝尊不降下土、故無山陵而祀其霊名木幡神社是天照大神之子也、
連糺按るに、木幡大和田村に坐す事は、伊勢国壹志郡阿射加神社三座大阿坂小阿坂両村に在て、其に今鷹天大明神と称す、筑前国下座郡美奈宜神社三座林田美奈宜両村に在て、其に今喰那尾大明神と称す類例也、云々」
とあり、又釈日本紀に引用する所の山城風土記には、宇治郡木幡社(祇社)名天忍穂根命とあるのみにて、二座の祭神不詳なり、木幡村社伝に「本社一座正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、相殿田中社、天穂日命、天津日子根命と見え、五箇庄村の社伝には天忍穂耳命、邇々芸命、神日本磐余彦命とあり、されば二座は木幡村、一座は五箇庄和田村なるべきものにして、二社合せて古制の一社に相当するものなるべし、兎も角も尚ほ研究の余地多きに似たり。
天正16年5月8日神道管領卜部朝臣の判物あり、又延享2年9月神祇管領卜部義雄参向祭典を挙行せり、又元禄12年9月幕府より御供料として、木幡山の内字小松山26140坪の余地を賜はれり、元本社は木幡山字神山に鎮座せしかば、今尚本社を距る三町の処に、鳥居坂、宮山、宮田御反田等の地名其附近に残れり、御堂上阿野家より玄米三斗四升同橋本家より玄米一斗二升余年々寄附せらる、明治の初年村社に列し、14年3月郷社に昇格せり。社殿は本殿、上屋、昇殿、社務所、神輿舎等を具備し、境内1048坪(民有地第一種一村名受)あり。
大日本地名辞書に「許波多神社、宇治村大字木幡及び五箇庄(岡之屋)の二所に在り、延喜式に宇治郡許波多神社二座とある者是なり、今土俗并に柳明神と曰ふ、山城風土記の逸文に、木幡社名、天忍穂長根命曰祇社とあるに同じ、蓋田神歟、食穂長根は稲の美称ならん。
一年木幡に牛多く煩ひ死にければ、所の神を柳明神と聞召して、歌よみ捧げられしかば、忽此災止みぬと
あはれみを垂るゝ柳のかみなれば死ぬるをうしと思はざらんや 近衛鷹山公(郡名所図会拾遺)」とあり、録して以て参考に供ふ。

明治神社志料



許波多神社三座 並大月次新嘗

許波多は假字也○祭神天忍穂長根命、(相殿二座詳ならす)○木幡村、大和田村両処に在す、共に今柳大明神と称す、○古事記(応神巻)云、一時天皇越幸近淡海国之時、到坐木幡村之時、云々、」萬棄集十一に山科強田山馬雖在云々、」釈日本紀云、山城風土記云、宇治郡木幡社、(祇社)名天忍穗長根命、
神社考云、一書吾勝尊、作天忍骨尊、蓋吾勝尊、不降下土、故無山陵而祀其霊、名木幡神社、是天照太神之子也、』連胤按るに、木幡大和田両村に坐す事は、伊勢國壹志郡阿射加神社三座、大阿坂小阿坂両村に在て、共に今寵天大明神と称じ、、筑前國下座郡美奈宜神社三座、林田美奈宜両村に在て、共に今喰那尾大明神と称す類例也、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国從五位下許波多神從五位上、

神社覈録



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